墓の彼方からの回想 フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン
第五冊
前巻のなかに読んだものはすべてベルリンで書かれた。わたしはボルドー公爵の洗礼式のためパリに戻り、そして内閣を去ったヴィレール氏への政治的忠誠心ゆえに大使職を辞した。ふたたび暇を得て、したためよう。過ぎゆく年月で満たされていくなか、これらの回想録はわたしにとって人生から滑り落ちたところのものを知らせる砂時計の下部の半球を表す。すべての砂が通り抜けるとき、神がわたしに力を与えていたとしても、ガラスの時計はひっくり返さないだろう。
謁見後ブルターニュでわたしが浸かった新たな孤独はもはやコンブールでのそれとは異なっていた。全体的でもなく、真剣でもなく、言ってしまうなら、強制されたものでもなかった。わたしは自由に離れていられた。孤独は価値を失っていた。城に住む紋章で着飾った老女、紋章が描かれた老男爵は封建領主の屋敷にて最後の息子と最後の娘を見守りながらイングランド人が呼ぶところの「登場人物」を差し出していた。その生では地方めいたことやか細さなどまるでなく、それは一般的な生ではなかったためだ。
姉のところでは、地方は野原のただなかで見つかった。近所から近所へと踊りにいき、喜劇が演じられ、わたしは時折下手な役者となった。冬、フージェールでは、小さな町の社会、舞踏会、会議、晩餐会にこらえなければならず、わたしはパリでのように忘れ去られてはいられなかった。
一方で、軍隊や宮廷をアイディアに変更を加えずにみてはいなかった。わたしの素朴な好みに反し、わたしのなかで不分明さと闘う名状しがたいものが影から出るようわたしに求めていた。ジュリーは地方に嫌悪感を抱いていた。天才と美女の直感がルシルをより大きな劇場へ駆り立てた。
それゆえわたしの在り方は命運に沿ったものではないと警告する不快感をわたしの存在のうちに感じ取っていた。
けれども、わたしは未だに田舎を愛していて、マリニーのそれは愛おしかった。連隊は居住地を変えていた。第一大隊はル・アーヴル、第二大隊はディエップに駐屯していた。わたしは後者に加わった。謁見がわたしの立場を生み出していた。職務には好感を抱いた。訓練に従事していた。新兵の教育を委ねられ、海岸の砂利のうえで演習していた。その海はわたしの人生においてほぼすべてのシーンの絵画の背景をなしていた。
ディエップではラ・マルティニエールは、同名の「ラマルティニエール」や、ボシュエとポール・ロワイヤルとベネディクト会修道士に抗して書いたシモン神父、セヴィニエ夫人が小ペケと呼んだ解剖学者ペケにかかずらってはいなかった。だがラ・マルティニエールはカンブレーでのようにディエップで恋い焦がれていた。コアフと髪の房が高さ半トワーズの屈強なコー人女性の足元で参っていた。彼女は若くなかった。稀なことに、彼女は、1645年に齢百五十であったあのディエップ人女性アンヌ・コシーの明らかな孫娘であるコシーと呼ばれていた。
わたしのように部屋の窓から海を眺めていたアンヌ・ドートリッシュが自身の悦楽のため燃え尽きてゆく火船をみていたのは1647年のことであった。彼女はアンリ四世に忠実であった人々に若きルイ十四世の警備を委ねた。彼女はこれらの人々に「彼らのノルマン語が醜悪であったにもかかわらず」無限の祝福を授けた。
その支払いをコンブールで目撃していた封建的賦課租のいくらかをディエップでも再見することになった。それは町民ヴォークランに支払われるべき、歯の間にそれぞれオレンジを挟んだ豚の頭三つと知りうるかぎり最古の造幣局によって鋳造された三スーであった。
わたしは半年をすごしにフージェールへ戻った。そこではラ・ブリネイ嬢と呼ばれる高貴な子女、すでに言及したあのトロンジョリ伯爵夫人の伯母、が君臨していた。コンデ連隊将校の喜ばしく醜い姉がわたしの称賛を引き寄せた。自らの誓願を美に差し向けるほど軽率ではなかっただろう。丁重な賛辞を危ぶませてしまったのは外でもない女性が有する欠点のおかげだった。
つねに病弱だったファルシー夫人はついにブルターニュを去る決心をした。彼女は自らに付きそうようルシルに決断させた。ルシルは自分の番となるとわたしの嫌悪を打ち負かした。われわれはパリへの道筋をたどった。ひとかえりの雛の年少の三羽による甘い団結。
兄は結婚していた。ボンディ通りの義父ロザンボ部長評定官宅に居住していた。われわれは兄の近所に落ち着くよう取り決めた。サン=ドニ旧市外区の高台にあるサン=ラザールの館に住んでいたドリル・ド・サル氏の仲介で、われわれは同じ館に部屋を定めた。
ファルシー夫人は、如何にしてかはわからないが、かつて哲学的愚見によってヴァンセンヌへと送られたドリル・ド・サルと通じていた。この時代、『詩神年鑑』に数行の散文を書き散らしたり四行詩を載せれば著名人として扱われた。非常に善人であり、非常に誠意をもって凡庸であったドリル・ド・サルは大きく精神を弛緩させ、自身のもとから年月を手放していた。この老人は自身の著作を織り交ぜた見事な、外国で売買しつつもパリでは誰も読まない蔵書を構成していた。毎年春が訪れるとドイツでアイディアを再興させた。太っていてだらしなく、ポケットからはみ出しているのが目撃された汚れた巻紙を携帯していた。四つ角で彼はそれにその時折の思索を書き留めていた。自分の大理石製の胸像の台座にビュフォンの胸像から借用した碑文を自らの手で刻んだ: 「神様、人間、自然、彼はすべてを説いた」。ドリル・ド・サルはすべてを説いた! そうした矜持は大変喜ばしいが、まったく落胆させられるものである。一体だれが真の才能を有しているなどと得意げになれるのであろうか? われわれは皆、ドリル・ド・サルのそれに似た幻影の支配下から出られないのだろうか? そのような文章を読む著者はおそらく自身のことを天才作家だと思い込んでいるが、それと同時に、彼は間抜け以外の何者でもない。
もしサン=ラザールの館の威厳ある人物のために語りを長引かせてしまっているのであれば、それは彼がわたしの初めて出会った文学者であったからである。彼がわたしを他人の社会へと導いた。
ふたりの姉の存在がパリ滞在の耐えられなさを和らげてくれた。勉学への傾倒が嫌悪を一層衰弱させた。ドリル・ド・サルはワシのように見えた。彼の家ではファルシー夫人への恋に落ちたカルボン・フラン・デ・オリヴィエを見た。彼女は歯牙にも掛けなかった。当人はよい同席者でいることを誇りに思っていたため、それを逆手に取った。フランはわたしを友人フォンターヌと知り合わせ、フォンターヌはわたしの友人になった。
ランスの水と森を管理する人物の息子であったフランは粗末な教育を受けていた。それでもやはり彼は機知の人物であり、ときおり才人であった。彼以上にみにくいものは思い浮かばなかった。短躯であり浮腫んでいて、太い目が飛び出していて、逆毛で、歯は汚れていて、それにもかかわらず、あまり品のない感じではなかった。彼の生き方は、当時のパリの文人ほとんどに共通したものだが、語るに値する。
フランは、ゲネゴー通りに住んでいたラ・アルプのすぐそば、マザリン通りに部屋を持っていた。お仕着せのコートゆえに召し使いに扮したふたりのサヴォワ人が彼に仕えていた。夜、彼らはフランに付き従い、朝になれば来客を家へと案内するのであった。フランは当時オデオン座で催され、喜劇において卓越をみせていたテアトル・フランセの公演へと定期的に足を運んでいた。ブリザーは引退したばかりだった。タルマはやり始めていた。ラリヴ、サン・ファル、フリュリー、モレ、ダザンクール、ドゥガゾン、グランメスニル、コンタ夫人、サン・ヴァル夫人、デガルサン夫人、オリヴィエ夫人が、モンタンシエ劇場での初舞台を控えていたモンヴェルの娘であるマルス嬢の登場までは、才能を開花させていた。女優たちは作者を庇護していて、ときおり成功のきっかけとなった。
家族のわずかな年金しか収入のなかったフランは貸付金を頼りに生活していた。高等法院の休暇にむけて、サヴォワ人へのお仕着せや、時計二つ、それに指輪と布類を抵当に入れて、借りていたものを貸付金で返し、ランスへと旅立ち、三つきを過ごし、パリに戻り、父親が授けた金銭によってモン・ド・ピエテに預けていたものを引き出し、常に陽気で歓待されるその生の循環を再始動させた。
パリで身を立ててから三部会の開催までのあいだに流れ去った二年の行程のなかで、この社会は広がりを見せた。パルニー騎士の悲歌を諳んじていたが、まだ覚えている。その作品がわたしの無上の喜びとなっていた詩人を一目みるため拝謁の許しを請う手紙を送った。彼は丁寧な返事をした。クレリー通りの彼の自宅まで赴いた。
そこにいたのは、まだ十分若く、とても恭しい、背高で痩せた、顔が小さい疱瘡で印付けられた男であった。彼はわたしを答訪しにきた。姉たちを紹介した。彼はあまり社会を好んでおらず、すぐ政治によって社会から追われることになった。そのころ彼は古い党派の一員だった。彼ほど自らの作品に似た著者に出会ったことがない。詩人かつクレオールの彼はインドの空、噴水、ヤシ、女性のほかは何も必要としなかった。喧騒を恐れ、人目につかない世渡りの方法を探り、怠惰さのためすべてを犠牲にし、不分明さのなかただ通りすがりに竪琴を触るよろこびによってのみ内面を露わにしていた:
われわれの幸福で裕かな生が 愛の翼のもとこっそりと流れてくれるように、 かろうじてせせらぐ小川みたいに、 そうして、あらゆる波を締めつける床のうえで 入念に灌木の陰をさがしもとめながらも 平原で姿をみせたりしまわないように。
怠惰から遠く離れることの不可能が、パルニー騎士を狂暴な貴族から、迫害された宗教と死刑台の聖職者を侮蔑する、すべてを代償にして自らの安らぎを買う、カミーユ・デムーランが愛を値切りに行った場所の言葉をエレノアを詠ったミューズに貸し与える、哀れな革命家へと転じさせた。
シャンフォールの後追いをして革命のさなか紛れていた『イタリア文学史』の著者は全ブルターニュ人が互いに有する遠戚関係をたどってわれわれのもとへとやって来た。ジャングネは十分なほど優雅な詩の一片『ズゥルメの告白』の評判に支えられて世を生き、ネッケル氏の部局に貧しい場所を授かった。そこから、その一片は彼の一般監査入りの途上にあった。誰が栄光の称号である『ズゥルメの告白』をジャングネと争っていたかは分からない。だが事実それは彼のものであった。
レンヌの詩人は音楽に通じており、ロマンスを作曲していた。謙虚であった彼だが、著名な誰かに付き従うにつれ増長していく姿をわれわれは見ていた。三部会の召集にむけ、シャンフォールは新聞記事やクラブ用の演説を書きなぐらせるため彼を雇った。彼は傲慢に振る舞った。最初の連盟祭で語っている: 《見事な祝祭ですよ、これは! よく照らしてやるためにも、祭壇の四つ角で貴族を四人燃やすべきでしょうね》。そうした願望は彼が発意したわけではなかった。彼の随分まえ、旧教同盟員ルイス・ドルレアンは『ダレト伯爵の祝宴』に書いていた: 《薪の束みたくプロテスタントの大臣たちをサン・ジャンの焚き木に括りつけ、猫の入れられた数ミュイの樽に王アンリ四世を入れるべきであった》
ジャングネは革命派の殺人にかんして前もった知識を得ていた。ジャングネ夫人はカルムで執り行われることになる虐殺をわたしの姉たちと妻に警告し、逃げ場所を授けた。彼女はひとびとの喉が引き裂かれるだろう場所の近所、フェルー袋小路に住んでいた。
恐怖政治ののち、ジャングネは準公教育長となった。彼がカドラン=ブルーにて『自由の木』を『わたしが植え、生まれ来るのを見つめた』の調子で歌ったのはその時のことであった。王位を追われた王のひとりにそばで仕える大使役としては十分哲学に恵まれていると判断された。彼はトリノからタレーラン氏宛に「偏見を打ち負かした」としたためた。彼は「ペタンレールを着た」妻を宮廷に迎い入れさせた。凡庸から権威、権威から愚鈍、そして愚鈍から滑稽へと転落し、批評家、とりわけ『ラ・デカッド』の独立した書き手として卓越していた文学者はその年月を終えた。時宜をえず社会が引っ張り出したところへは自然によって連れ戻された。彼の知識は受け売りで、散文は重く、詩は正しく、ときおり喜ばしい。
ジャングネは詩人ル・ブランが友人であった。世に通じている才人が天才の単純さを庇護するようにジャングネはル・ブランを庇護した。ル・ブランは代わりに光明をジャングネの高みに投じた。ふたりの優れた人物が互いを喜ばせるために可能なすべてのことを種々のジャンルにおいて、穏やかな交流でもって行うふたりの代父の役ほど喜劇的なものはない。
ル・ブランはただ単に最高天の偽紳士であった。激情が凍ったものであったように霊感もまた冷ややかであった。かれのパルナッソス、モンマルトル通りの高層階には、床のうえで乱雑に積み上げられた本、二枚の汚れたタオルからなるカーテンが錆びた鉄のレールから垂れ下がっていた簀の子の寝台、藁の詰めもののとれた肘掛け椅子にもたれ掛かった水瓶が半分あり、家具はそれだけであった。ル・ブランは安らいでいなかったわけではないものの、吝嗇であり、悪質な生を送る女たちに依存していた。
ヴォードルイユ氏の「古式」晩餐会では、ル・ブランはピンダロスの役割を担った。かれの抒情詩のなかには、船舶「復讐者」号への頌歌や、「巴里近郊」にまつわる頌歌のように、精力的もしくは優雅な詩節がみつかる。哀歌は頭から発したものであって、魂から出たものはほとんどない。探し出した独自性は有しているものの、自然な独自性ではない。芸術の力だけで生み出している。言葉の意味を変質させ、怪物的な撞着でもってつなぎ合わせるのに苦労している。ル・ブランは風刺だけには真の才能を有していた。「良い冗談と悪い冗談」にかんする書簡は相応の評判に恵まれた。いくつかの書簡はJ.=B.・ルソーのそれらの近くに置かれるべきである。さらにラ・アルプが着想をあたえた。また、別のことがらにおいても彼を認めなくてはならない。ボナパルトの統治のもと独立を保ち、われらの自由を抑圧したものに対抗して血塗れた詩句を残した。
だが、紛れもなくあの時代、パリでもっとも胆汁質の文人として知られたのはシャンフォールであった。ジャコバン派を生んだ病に冒された彼は、ひとびとが生を受けたことの偶然を許すことができなかった。立ち入りが許された家の信頼を裏切った。宮廷風俗を描写するため自らの犬儒派的な言葉遣いを活かした。かれの精神と才覚をあげつらうことはできないが、後継者皆無の精神と才覚にかんしては別である。革命下、自らには行き先がないと察したとき、社会にたいして挙げていた手を自身に向かってひっくり返した。かれの自尊心にとってもはや赤い三角帽は別種の王冠に映り、サン=キュロットはマラー家やロベスピエール家を大領主とする貴族の類でしかなかった。痛みと泣涕の世界にあっても階級の不平等をみれば憤激し、死刑執行人による封建制においては下賤であることを糾弾され、罪の優越から逃れるためにかれは自らを殺めてしまうことを望んだ。かれは遣り損なった。死は呼ぶものを笑う、無と混同して呼ぶものたちを。
ドリル神父とは1798年のロンドン滞在時を除けば馴染みがなかったし、デグモン夫人により生き同時に夫人を生かすリュリエールや、パリソ、ボーマルシェ、マルモンテルも目撃しなかった。わたしをよく攻撃したものの、わたしは呼びかけに一度も応じなかった、わたしの人生における危機のひとつをその学士院の席が生み出す運命にあったシェニエと一度たりとも遭遇しなかったもそのようにしてである。
十八世紀の作家の大半を読み返すとき、かれらが立てた騒ぎとわたしの嘗ての称賛によって唖然としてしまう。言語が進歩したのか、退化したのか、文明化へと前進したのか、野蛮への撤退をともなう敗北を喫したのか、若き時代には喜びであった作家たちのなかにわたしが確かに見出すのは、古びて、時代遅れとなり、灰色と化した、動きのない、冷たいものである。ヴォルテールの時代の偉大な作家たちのなかにですら、感情と思想と様式の乏しいものをみる。
この見込み違いを一体誰のせいにできよう? 恐るべきことに、第一の罪人はわたしではなかっただろうか。生まれながらの改革者としてわたしは自ら苦しんだ病を新たな世代へと伝達したのかもしれない。どれだけ子どもたちに叫ぼうとも怯えてしまっている—— 《フランス語を忘れぬように!》。彼らはリムゥザン男がパンタグリュエルへと答えたように返答する—— 《琉提細亜ト呼称セラルル慈恵ニシテ高名、マタ世ニ謳ワレタル学都ヨリ来レル者ゾ》[ラブレー第二之書 パンタグリュエル物語 第六章 渡辺一夫訳]
われらの言語をギリシャ語化またはラテン語化するこの手法は、現在も見られるが新しいものではない。ラブレーが治癒し、ロンサールのなかで再発した。ボアローはそれを非難した。近頃では学問により蘇っている。生まれつき大ギリシャ人であるところのわれらが革命派は商人や農民がヘクタール、ヘクトリットル、キロメートル、ミリメートル、デカグラムを学ぶよう強制した。政治はロンサール化した。
ここで、当時の知り合いであり今後また振り返ることになる、ラ・アルプ氏について言及することも出来よう。わたしの肖像画の陳列にフォンターヌのそれを加えることも出来よう。だが、この卓越した人物との関係が1789年に生じたにも関わらず、常に不幸によって増大し幸運によっては減退することのない友情で彼と結びついたのはただ英国のみでのことであった。そのことについてはさらに後になってから全くの心の発露とともに語る。もはや地上を鎮めることのない才能だけを描写しなくてはならないだろう。友人の死はわたしの記憶が彼の生を始まりを活写させた際に訪れた。朝の出来事を晩に書かなければ、仕事がわれわれを手一杯にして、日記をつける暇もない、それほどまでにわれわれの存在はひとつの逃走である。その逃走も年月を無駄に費やすことや人間にとって永遠の種子である時間を撒き散らすことを阻みはしない。
もしもわたしや二人の姉の好みがわたしを文学界へ飛び込ませたのであれば、立場がまたわたしたちを他所に足繁く通わせた。兄の妻の家族がわたしたちにとって自然な成り行きでその社会の中心となった。
十分な勇ましさとともに死に絶えたル・ペルティエ・ド・ロザンボ部長評定官は、わたしがパリに到着したとき、軽薄さのモデルであった。あの時代、精神や風紀においてすべてが乱れており、じきに訪れる革命の前兆となっていた。司法官たちは法服を着るのに顔を赤らめ、父親の威厳を嘲笑いだした。ラモワニョン家、モレ家、セギエ家、ダゲソー家は闘いを欲し、裁判を望まなくなった。部長評定官夫人らは一家の尊ばれる母であることをやめ、派手な事件の女となるため暗い邸宅を離れた。司祭は説教壇でイエス・キリストの名を避け、ただ「キリスト教徒の立法者」とだけ口にした。大臣は次から次へと失脚した。権力はすべての手から滑り落ちていった。至高の上品さとは街のアメリカ人になることであり、宮廷の英国人になることであり、軍隊のプロイセン人になることであった。何者でもよかった、ただフランス人でさえなければ。行ったこと、発したことは、非一貫性の連続でしかなかった。修道院外聖職者大修道院長を残すとしながら、宗教は欲しなかった。紳士でなければ誰も将校にはなれず、将校は貴族階級を罵った。サロンに平等を持ち込み、野営地では棍棒による打擲が取り入れられた。
マルゼルブ氏には三人の娘がいて、それぞれロザンボ夫人、ドルネー夫人、モンボワッシエ夫人であった。彼はとりわけロザンボ夫人を意見の類似ゆえに愛した。ロザンボ部長評定官にも娘が三人いて、それぞれシャトーブリアン夫人、ドネー夫人、トクヴィル夫人であり、キリスト者の完全性に覆われた輝かしい精神の持ち主である息子がひとりいた。マルゼルブ氏は子や孫、曾孫たちに囲われるのを好んだ。革命の初期にはロザンボ夫人宅へとやってくる、政治により燃え上がった、かつらを投げては義姉の部屋の絨毯に横たわり、蜂起した子どもたちの恐ろしいざわめきのなかで揶揄れるがままの彼を幾度も目撃した。加えて、ある種の唐突さゆえに凡庸な雰囲気から免れていなければ、その作法において彼は十分卑俗な人物であったであろう。彼の口から発せられた最初の言葉を聞けば、古い名の人物や高等司法官を思わせた。自然な徳は哲学と混じり合わせられ、気取りによって少しばかり汚されていた。彼は学問、実直さ、そして勇気で溢れていた。だが、ある日わたしに語ったコンドルセのことに関しては煮え立ち、情熱的だった。《この男はわたしの友人だった。今では犬のように殺しても差し支えない》。革命の波が彼を限界にし、その死が彼の栄光を生み出した。この偉大な人物は、もし不幸が彼を世に明かさなければ、功績のなかに埋もれたままであっただろう。ベネチアのある貴族は、古い宮殿の瓦礫のなかに自らの称号を見出したとき、命を落とした。
マルゼルブ氏の率直な流儀がわたしからすべての拘束を取り払った。彼はわたしにいくらかの教養を認めた。この第一点でわれわれは似通っていた。彼好みの話題である、植物学や地理学にかんし話をしていた。ハーンと、そののちマッケンジーが目撃した海を見つけ出すため北アメリカを旅するアイディアが浮かんだのは彼と話し合っていたときである。政治についても分かり合えた。われわれの初期の問題に通底していた気前のよい感情はわたしが有する性格の独立性に適っていた。宮廷に抱いていた自然な嫌悪はこの傾向に拍車をかけた。わたしはマルゼルブ氏とロザンボ夫人の側につき、ロザンボ氏と、「激昂する」シャトーブリアンの異名を取った兄に反した。革命がもし犯罪に端を発していなければ、わたしは十分惹きつけられていたであろう。槍のさきに突き刺され運ばれる最初の首をみて、後ずさった。殺人はわたしの目には決して称賛の対象であったり、自由の口実にはならない。わたしは全くテロリストより奴隷的で軽蔑すべき、臆病かつ偏狭であるものを知らない。わたしはフランスで、ブルートゥス、カエサル並びにその警察の役務に就いたブルートゥスの、有りとあらゆる人種と出くわさなかったであろうか? 平等派、再生者、殺害者は従僕、諜報員、追従者と成り果て、より不自然に、公爵、伯爵、男爵となった。何と中世的であろうか!
最後に、この高名な老人へと更に執着させたもの、それは姉への偏愛であった。伯爵夫人ルシルの内気さにもよらず、マルゼルブ氏の祝宴のおり僅かばかりのシャンパンの助けを得て小品のなかで彼女に役を演じさせるに至った。彼女は善良で偉大な人物の頭を振り向かせたほど感動的であった。彼は兄ですら敵わぬほど、「十六[高祖父母]の」紋章の厳格で難解な証明が求められていた、ルシルのラルジャンティエール参事会からルミルモン参事会への異動を後押しした。如何に哲学者であろうとも、マルゼルブ氏は生得の信条を高度に有していた。
世界へとわたしが登場したときの人々と社会のこの描写は、1787年5月25日、最初の名士会の閉幕から、1789年5月5日、三部会の開催に掛けてのおよそ二年の期間へと書き伸ばされなくてはならない。この二年のあいだ、姉たちとわたしはパリやパリの同じ場所に住み続けていたわけではなかった。わたしはいまから後戻りし、読者をブルターニュへと連れ戻す。
それに加え、わたしは未だ幻想に夢中だった。もし木々を恋しくおもえば、過ぎ去りし時が、遠き場所の不在のなかでわたしを別の孤独へといざなった。古きパリでは、サン=ジェルマン=デ=プレの壁の内側で、修道院の回廊で、サン=ドニの地下倉にて、サント=シャペルで、ノートル=ダムで、シテ島の小さな通りにて、エロイーズの薄暗い扉にて、わたしはまた魔女を見ることになった。だが彼女はゴシック教会のなか、墓に囲まれ、何かしら死にまつわる様相を呈した。青白い顔をして、悲しい目で見つめてきた。それはわたしが愛した夢の亡霊、もしくは死霊以外の何かではなかった。
1787年と1788年の複数回に亘るブルターニュ滞在のなかでわたしの政治的教育は始まりを告げた。三部会のモデルは地方三部会に再び見出された。さらには、国の騒乱を予告する独特の混乱がブルターニュとドーフィネのふたつのエタ地方で捲き起こされた。
二百年にかけて進展してきた変化は終わりを迎えていた。封建君主制から三部会君主制へ、三部会君主制から高等法院君主制へ、高等法院君主制から絶対君主制へと流れたフランスは、司法官と王権の対立を経て代表君主制へと傾斜していった。
モープー高等法院、地方議会の成立、頭数による投票、最初と二度目の名士会、全権裁判所、大バイイ裁判所の設立、プロテスタントの市民権回復、拷問の部分的な廃止、賦役の部分的な廃止、納税額の等分配、それらは間もなく生じる革命の連続した証しであった。だが当時、事実は総合して顧みられなかった。それぞれの出来事は単独の事故とみなされた。歴史上のあらゆる時代において、ひとつの精神原則が認められる。ただの一点を眺めれば、他のすべての点の中心へと収束する光線を垣間見ることもない。機械のなかの水や火のように一般的な生や運動を生じさせている隠れた因子をわれわれは振り返らない。それゆえ、革命の開始時に、激流の流入や蒸気の爆発を防ぐためにはしかじかの車輪を壊せば十分だと多くのひとびとが考える。
物質的行動ではなく知性的活動の世紀であった十八世紀は、自身の乗り物と出会わなければ、それほど迅速に法改正を成し遂げてはいなかった。高等法院、とくにパリ高等法院は哲学体系の道具と化した。権力を授け、意志を与え、舌と腕を付け足す議会のうちに留まらなければ、全ての意見は力なく、もしくは熱狂的に死に絶える。革命が起こり、これからも生じるのは、合法性の如何によらず常に社団を通してである。
高等法院には復讐すべき謂れがあった。三部会から簒奪した権限を絶対君主制に奪われていた。強制登録、親裁座、国外追放は、司法官らを人気者にし、深くでは誠実な支持者ではないところの自由を追求させた。自らのために立法権と政治権力を望んだと認めてしまうことなく、彼らは三部会の開催を要求した。自らがその遺産を受け継いできた、息を吹き返すとき手始めにまず彼らを専門の司法に帰する社団の復活をそのようにして急いだ。良識や情熱から動くとき、大抵の場合ひとは関心事についての判断を誤る。ルイ十六世は三部会開催を要求することになる高等法院を再建した。三部会は国民議会や、すぐに国民公会へと転じながら、王座や高等法院を破壊し、判事や司法を創出した君主を死に追いやった。だがルイ十六世と高等法院は、彼らが社会革命の手段であったため、知らぬ間にこのように振る舞った。
三部会のアイディアはそれゆえ皆の頭にあったが、それがどこへ向かっているのかは不明だった。今日ではごく僅かな銀行家しか解消を試みないだろう赤字を埋めることが、民衆にとっての問題であった。そのように暴力的な治療をそれほど軽い病に適応したことが、未知の政治的領域へと差し向けられたことを証している。金融情勢が明白になった唯一の年である1786年度は、412,924,000リーブルの収入があり、593,542,000リーブルの支出があった。赤字の180,618,000リーブルは、40,618,000リーブルの貯蓄によって、140百万リーブルまで減少した。この予算において、国王一家は総額37,200,000リーブルという莫大な金額を割り当てられていた。王子らの借金、城の購入、宮廷における横領は、この負債超過の原因であった。
三部会の開催は1614年の形式で望まれていた。あたかも1614年以降誰も三部会について話すのを聞かなかったか、召集が掛からなかったかのように、歴史家はつねにこの形式を持ち出す。しかしながら、1651年、パリに集結した貴族階級と聖職者は三部会の開催を要求した。当時纏められた議事録と述べられた演説の分厚い選集がある。当時絶対的権力を有していたパリ高等法院は、はじめの二つの階級の意向を持ち上げることなく、彼らの会議が違法であるかのように破壊してみせた。そしてそれは真実であった。
そして、この章に差し掛かったのだから、フランス史の執筆に手出しした人々、もしくは手出ししている人々が知らぬ間に避けているもう一つの重大な事実について言及しておきたい。「三つの身分」は本質的に、いわゆる全体会議を構成しているかのように述べられる。ところで、バイイ裁判所が「一個」か「二個」の身分のためだけに代議士を指名する事態がしばしば生じた。1614年、アンボワーズのバイイ裁判所は聖職者のためにも貴族のためにも任命はしなかった。シャトーヌフ=アン=ティムレのバイイ裁判所は聖職者や第三身分のための派遣はしなかった。ル・ピュイ、ラ・ロシェル、ル・ロラーゲ、カレー、ラ・オート=マルシュ、シャテルローは聖職者のための人員を欠き、モンディディエとロワは貴族のための人員を欠いていた。それでも、1614年の身分制議会は「états généraux
」[全体会議、三部会]と呼ばれた。さらに、古い年代記はもっと正確な方法で表現するため、事態に応じて、国民議会を「三つの身分」、「有力な町民ら」、もしくは「男爵と司教たち」と呼び、そのように構成された会議に同じ立法権を認めた。様々な州において、しばしば第三身分が、招集されたにもかかわらず、こっそりとだがとても自然な理由で代表を派遣せずにいた。第三身分は司法官の座を独占し、帯剣貴族を追い出した。貴族中心の高等法院のいくらかを除けば、彼らは判事、弁護士、検事、書記官、裁判官見習いなどとして絶対的なやり方で支配していた。民法と刑法を制定し、高等法院での横領を経て、政治権力すら行使した。市民の財産と名誉、そして生命は彼らの支配下にあった。すべては彼らの裁きに従い、かれらの正義の剣のもとに頭を垂れた。限りのない権力をそれゆえ単独で享受しながら、この権力のごく僅かな部分を探し求めるため、一体どうして跪いて現れるだけの会議に出席などする必要があっただろうか?
修道士へと変貌を遂げた人々は修道院に逃げ、宗教的意見で社会を操った。徴税人や銀行家に変身した人々は金融界へと逃げ、お金によって社会を操った。司法官に変身した人々は法廷に逃げ、法で社会を操った。いくつかの箇所や州では貴族制であったこの大フランス王国は、王の指示のもと、彼と見事に理解し合い、ほとんどの場合歩調を合わせながら、全体としては民主制であった。それが長い期間にわたる存続を解き明かしている。全く新しいフランス史はやり残されているか、もっと正確にいえば、フランス史自体実現されていない。
上で触れた大問題はすべて1786年、1787年、1788年にとりわけ討議された。同胞の頭は生来の活発さや、州と聖職者と貴族の特権、高等法院と三部会の衝突といった大量の発火性物質のなかにあった。一時期ブルターニュの地方長官を務めたカロンヌ氏は、三部会の大義を支持したことで分裂を助長させた。モンモラン氏とティアール氏は宮廷党の一党支配のためには脆弱すぎる指揮官であった。貴族階級は貴族であった高等法院と連合した。ある時はネッケル氏やカロンヌ氏、サンスの大司教に抗った。またある時は、はじめの抵抗では支持していた大衆運動を押しやった。貴族階級は集まり、討議し、抗議していた。市町村、もしくは地方自治体は対向して集まり、討議し、抗議していた。「竈税」に関する私的な事案は一般的な事案と混ぜ合わさって、敵意を増大させた。これの理解のためには、ブルターニュ公国憲法を説明する必要がある。
ブルターニュ三部会は、似たところの、封建ヨーロッパすべての政府のように、多かれ少なかれ形式を異にしていた。
フランス王はブルターニュ君主の座を得た。アンヌ女公による1491年の婚前契約は持参財としてブルターニュをシャルル八世とルイ十二世の王権にもたらしただけではなく、シャルル・ド・ブロワやモンフォール伯爵まで遡る紛争を終結させることになる取引を定めた。ブルターニュ側は娘たちが公国を継承していると主張した。フランス側は継承は男系に限られると固持した。その家系は途絶えかけており、大封としてのブルターニュは王権の手に戻ったとも。シャルル八世とアンヌ、引き続いてアンヌとルイ十二世はお互いに権利もしくは要求を譲り合った。アンヌとルイ十二世の娘でありフランソワ一世の妻となったクロードは死去した際にブルターニュ公国を夫のもとに残した。フランソワ一世は、ヴァンヌに集結した諸身分の懇願にもとづいて1532年にナントで発した勅令により、自由と特権を保証しながらブルターニュ公国をフランスの王権のもとに併合した。
この時代、ブルターニュ三部会は毎年招集されていた。だが1630年に隔年開催となった。総督が三部会の開催を宣言した。三つの身分は階級に応じて教会内や修道院の一室といった場所に集まった。それぞれの身分は別れて話し合った。聖職者と貴族、そして第三身分が同席した際には全体的な動乱となる様々な騒ぎを伴った三つの特殊な会合であった。宮廷は論争を吹きかけ、その狭い領域のなかで、もっと広大な舞台でのように、才能と虚栄そして野望とが賭けられた。
カプチン会修道士のグレゴワール・ド・ロストルナン神父は『フランコ・ブルトン事典』の献辞において領主へと語りかける体裁でブルターニュ三部会に言及している:
《もしローマ人の演説家だけが毅然としてローマの元老院の高尚な会議を称えるのに相応しかったのであれば、どうしてわたしが新旧のローマが有する荘厳でかつ敬うべきもののアイディアを大変毅然として力説する貴方がたの高尚な会議への賛辞を試みるでしょうか?》
ロストルナンはヤペテの長子ゴメルがヨーロッパにもたらした始原の言語のひとつがケルト語であり、バス=ブルトン語はその規模にも依らず巨人由来だと明らかにした。ゴメルのブルターニュ人であった子どもたちは、長期に渡ってフランスから隔たり、残念ながら、古い肩書の一部を消え失せさせるに至った。彼らを一般史に紐づけたほどの重要さを彼ら自身認めなかった特権は免状解読者の側がとても高く評価するような正当さを多くの場合欠いている。
ブルターニュで三部会が執り行われる期間は祭典と舞踏会の期間であった。ひとびとは指揮官氏宅で食し、貴族長氏宅で食し、聖職者長氏宅で食し、財務官氏宅で食し、地方長官氏宅で食し、高等法院の部長評定官氏宅で食していた。どこでも食べていた。そしてどこでも飲んでいた! デュ・ゲクラン耕作人やデュゲイ=トルーアン水兵らが古い鍔のついた鉄剣もしくは小さな舶刀を脇に抱えて食堂の長机に着席する様が見られた。三部会に自ら出席する紳士の皆は、ポーランドの身分制議会、馬乗りではなく徒歩のポーランドや、サルマタイではなくスキタイの身分制議会にかなり似ていた。
残念ながら、燥ぎすぎた。舞踏会は止め処なかった。ブルトン人は踊りと舞曲で特出していた。セヴィニエ夫人は荒れ地の只中のわれわれの政治的大宴会を、夜にヒースのうえで催される妖精と魔術師の饗宴のように描写した:
《ただいまから——と彼女は書く——ブルトン人であることの苦痛をもたらす三部会の新たな知らせをお伝えいたします。ショーヌ氏が日曜の晩に、出しうる限りの騒ぎを伴いながらヴィトレに到着しました。月曜の朝にはわたしに手紙を寄越しました。昼食をご一緒することで返答いたしました。わたしたちは同じ場所に二つのテーブルを着けて食事をします。各テーブルには十四の食器セットが準備されてあります。夫君が一方を使い、夫人は他方を使います。御馳走は過度で、ローストのお皿は全く手付かずのまま回収されます。果物のピラミッドのため、扉は持ち上げられなければなりません。わたしたちの父親は、扉が彼らより高く掲げられなければならないとは知る由もなかったため、そうした類の機械を予期致しませんでした… 昼食後、ロクマリア氏とコエトロゴン氏がブルターニュ人女性と素敵なパスピエやメヌエットを、宮廷人が有するとはとても思えない雰囲気とともに、踊りました。ふたりはそこでボヘミアとバス=ブルターニュのステップを、魅了する繊細さと正確さでもって、取ります… それが昼となく夜となく世界の皆を引きつける遊戯であり、饗宴であり、自由です。わたしは三部会を全く見たことがありませんでした。それはとても美しいのです。集会を執り行うところでこれより偉大な雰囲気を有する州があるとは思えません。少なくとも人に溢れていなくてはなりません、誰も戦場や宮廷にいるわけではないのですから。他のひと同様ある日そこに戻ってくるかもしれない小さな旗手(子息セヴィニエ氏)を除いては… 無数の贈り物、恩給、道路と町の修繕、十五か二十の大テーブル、絶え間ない遊戯、永遠の舞踏会、週三のお芝居、大盛装。それが三部会です。飲まれた三、四百のワイン樽のことは忘れていきます。》
ブルトン人はセヴィニエ夫人の嘲りを許すのに困難を覚える。わたしはそれほど厳格ではない。だが彼女のこうした発言は好ましくない: 《[娘グリニャン夫人宛に]あなたは悲惨をとても愉快に語ってくれますね。わたしたちはもう車輪刑に処されているわけではありません。八日のうち一日だけが正義を維持するのに必要なのです。まことに、今では首吊りがお冷のようです》。快い宮廷語を推し進めすぎている。バレールは同じ優雅さでもってギロチンに言及していた。1793年、ナントの虐殺は「共和主義的結婚」と呼ばれた。民衆の専制は君主専制式の侮言を繰り返していた。
三部会まで王族に伴ったパリの自惚れは、指揮官殿の若鶏のフリカッセを妻のもとへと持ち帰るためにわれわれ田舎貴族がポケットにブリキをつけさせたと、陰口を叩いていた。そうした嘲笑には犠牲を払うことになった。そう遠くはない時代、とあるサブランの伯爵は不味い言の償いとして広場に留め置かれた。スイス人のように背高であったこのトルバドゥールとプロヴァンス王の末裔は、モルビアン出身であったラップ人ほどの身長の小さな野兎猟師によって殺された。その「ケール」は系譜においても相手に引けを取らなかった。もしエルゼアール・ド・サブランが聖ルイの近親であったならば、とても高貴な「ケール」の大おじ聖コランタンは、イエス=キリストの三百年前、王ギャロン二世の治世においてカンペールの司教を務めていたことだろう。
ブルターニュにおける王の収入は必要に応じて変動する無償の贈与、または王冠の領地における三、四十万フランの評価となり得る収益、もしくは印紙にたいする徴収などから成り立っていた。
ブルターニュには帳尻を合わせるための特別な収益があった。現金とその流通を打つ「大いなる義務」と「小さな義務」が年間二百万の稼ぎを生み出していた。そして終いには「竈税」によって回収される総額があった。大抵の場合、われわれの歴史における竈税の重大さに気づくことはない。だが、印紙のそれがアメリカにとって革命であったように、フランスにとって竈税は革命であった。
竈税(census pro singulis FOCIS exactus
[竈ごとに求められる定期金])は平民の財産に課される竈ごとの地代、もしくはタイユ税の一種であった。徐々に増大した竈税により、州の借金は返済されていった。戦時には支出が会期ごとに七百万増え、額は財政収入にまさった。竈税由来のお金による資本を形成し、竈税課税者のための年金を給付する計画が持ち上がった。そうなれば竈税はただの公債でしかなかった。不平等(慣習法用語上の「法的」不平等)とは平民の所有権だけを対象とすることであった。自治体は抗議の声をあげ続けた。金銭より特権に頓着した貴族は彼らをタイユ税の課税対象とする税の話を避けた。1788年12月の凄惨なブルターニュ三部会が開会したとき、それらが議論の的となった。
そのとき精神は様々な要因によってかき乱されていた。名士会、地租、穀物取引、次期三部会の開催と首飾り事件、全権裁判所と『フィガロの結婚』、大バイイ裁判所とカリオストロとメスメル、そして他の幾千の重大もしくは軽薄な出来事がすべての一族において論題となった。
ブルターニュの貴族は全権裁判所の設立に抗するため独断でレンヌに集結した。わたしはこの議会に赴いた。人生で初めて出席する政治会合であった。そこで聞いた叫びには呆然とさせられ、魅了された。ひとびとは机と議席のうえに乗った。同時に手振りし、同時に話していた。義足のトレマルガット侯爵はステントール的な声で発言した: 《みなさん、指揮官ティアール氏のお宅へと向かいましょう。こう言ってやるのです。ブルターニュの貴族が扉の前にいます、と。かれらが発言を要求しているのです。国王ですら断らぬことでしょう!》。この雄弁な言動に対する喝采が会議場の穹窿を揺らした。侯爵は繰り返した: 《国王ですら断らぬことでしょう!》。喚きと足踏みが倍加した。われわれは、宮廷人で恋愛詩人、穏やかで移り気な精神の、われわれの喧騒には致命的に参っていた伯爵ティアール氏の邸宅まで足を運んだ。氏はわれわれが「ウーウー[フクロウ、その他]」か、イノシシ、野獣であるかのように見つめた。われらの故郷アルモリカから逃れようと燃え立ち、屋敷への立ち入りを拒む気などまるでなかった。演説者は、のちにそれに従ってこの宣言を策定することになる、要求するところのものを伝えた: 《新たな司法機関の内部であろうと、国家機関の内部であろうと、ブルターニュの制定法によって認可されない立場を承諾しようとする者たちを卑劣だと宣言する》。その書を王のもとへと届けるために十二人の紳士が選出された。パリ到着時、彼らはバスティーユに収監され、そこからすぐ英雄のようにして出てくることになった。彼らの帰還は月桂樹の枝をもって受け入れられた。われわれはアーミン模様に散りばめられた大きなパールボタンの周りにラテン語で次の格言が書かれていた服を着用した: 《不名誉より死を》。われわれは誰しも打ち勝っていた宮廷に打ち勝ったが、宮廷とともに同じ奈落の底に落ち込んだ。
未だに計画を推進していた兄がマルタ騎士団の一員となるようわたしを差し向ける決心をしたのはこの時であった。それはわたしが聖職者の地位を受けるのに必要なことだった。その権利はサン=マロの司教コルトワ・ド・プレシニー氏から授かるべきものであった。それゆえわたしの卓越した母が隠居していた土地であるわが故郷に赴いた。母はもう子どもたちを傍に置いてはいなかった。日中は教会で過ごし、夜は編み物をしていた。母の不注意は理解し難いものだった。ある朝には祈祷書のつもりで脇の下に部屋履きの一方を抱えた母と道で出会った。時おり隠れ家に古い友人たちが入り込み、懐かしき時代について話をしていた。二人っきりのときは韻文による美しい物語を即興で語ってくれた。その物語のひとつでは悪魔が不信心者の入った煙突を持ち去っていた、そして詩人はこう叫んだ:
通りの悪魔が ひょいひょい闊歩し、 見失うまで 一時間とてかからず。
《まるで——とわたしは言った——悪魔がゆったりとしか動いていないようです。》
だがシャトーブリアン夫人はわたしが何一つ理解していないことを示した。彼女は素敵な母であった。
彼女は『モンフォール=ラ=カン=レ=サン=マロの町における野生雌アヒルの実話』に関する長い哀歌を有していた。とある領主が大変美しい若き娘を名誉を剥奪する目的でモンフォール城に幽閉した。屋根の窓から彼女は聖ニコラ教会を覗き見る。涙を湛えた目でもって聖人への祈りを捧げ、彼女は奇跡のように城の外へと移された。だが主人が行ったであろうことを彼女にたいして望む逆臣の家来らの手に落ちた。哀れな娘は死に物狂いで救いを求めあらゆる方向を見遣ったものの、目に入ったのは城の池のうえにいる野生雌アヒルたちだけであった。聖ニコラへの祈りを新たにし、もし絶命しなくてはならないのなら、もし聖ニコラに誓ったことを成し遂げられないのであれば、鳥たちが彼ら自身彼らなりに彼女の名において彼女のために誓約を叶えるため、彼女の無辜であることの証言者となるように請うた。
娘はその年に亡くなった。そうして、聖ニコラの遺骨を奉遷した5月9日、聖ニコラ教会に小さな子どもたちを引き連れた野生雌アヒルが現れた。彼女は入場し、解放者たる福者を羽ばたきでもって称えるため彼の似姿のまえで翼をはためかせた。そのあと幼子の一匹を御供として捧げたまま池に戻った。幾らかしたのち、アヒルの子は誰に気付かれることもなく帰ってきた。二百年以上もの間、雌アヒル、相も変わらず同じ雌アヒルは、モンフォールにある大聖ニコラの教会へと決まった日にひとかえりの雛を連れて帰ってくる。この物語は1652年に書かれ、印刷された。作者は全くもって正当に発言している: 《神の瞳の前では貧弱な野生雌アヒルはさほど重要ではない。それでも神の偉大さに向けられた賛辞の一端を担っている。聖フランシスコの蝉はまだ重んじられていなかったが、そのビブラートはセラフィムの心を揺さぶっていた》。だがシャトーブリアン夫人は誤った伝承を引き継いでいた。彼女の哀歌のなかでモンフォールに幽閉されたのは征服者の暴力から逃れるため雌アヒルへ変身することが許されるお姫様であった。その母のロマンスはつぎの一節の数行しか覚えていない:
美女は雌アヒルになった、 美女は雌アヒルになった、 そして鉄柵から飛び立つ、 青浮草で覆われた池へと。
シャトーブリアン夫人は真の聖人であったがために、聖職者の地位をわたしに授けるようサン=マロの司教と約束を取り交わした。司教は躊躇していた。彼には俗人や兵士に与える聖職者の証が聖職売買に似た冒涜だと思えた。現在ブザンソンの大司教で貴族院議員のコルトワ・ド・プレシニー氏は誠実で評価に値する人物である。当時は若く、王妃に庇護されており、富へと向かう途中にあったがそこにはもっと先になってましな方途で辿り着くことになった。迫害によってである。
わたしは制服を着て帯剣し、高位聖職者の足元に跪いた。彼は頭頂の髪を二三房切った。それが正式な形式でその書状を受け取ることになる剃髪と呼ばれるものであった。高貴であることを示す証拠がマルタに認められれば、その書状でもって、200000リーヴルもの年給がわたしのもとに転がりこむ手筈だった。確かに聖職者階級においては乱用、だが旧憲法の政治的秩序のもとでは有益なものであった。軍隊における権益の類が、パリの敷石のうえに立つ肥えた小修道院を貪る神父のマントに結びつくより、兵士の剣と結びつくほうがよっぽど適切ではなかっただろうか?
先の理由からわたしに授けられた聖職者の地位は、事情に通じていない伝記作家たちに、わたしが初めて聖職に就いたと語らせた。
これが生じたのは1788年のことだった。わたしは馬を所有し、平野を駆け巡り、もしくは波や呻く旧友沿いに襲歩した。馬から降りては彼らと戯れた。吠えるスキュラの一族全員が愛撫しようとわたしの膝に飛び掛かった。Nunc vada latrantis Scyllæ
[いざ吠えるスキュラのもとへ]。自然の風景を称えるために遥々旅をしてきた。生まれの国が差し出す風景でわたしは満足していたかもしれない。
サン=マロの周囲半径五六リューの土地ほど好ましいものはない。ランス川の岸、河口からディナンまで遡上する、それだけで旅行者を惹き付けるだけの価値はある。岩と緑の、浜と森の、入り江と集落の、封建制ブルターニュの古い領主邸と商業的ブルターニュの現代住宅の、絶え間ない混交。後者はサン=マロの仲買人が機嫌の良い日にはピアストルをフリカッセにし全くもって沸騰したそれを窓越しに人々へと投げつけたほど裕福だった時代に建てられた。そうした住居は豪華絢爛であった。ラ・ソドルの主人たちの城ボナバンは一部がパリでは考えもつかない壮大さのジェノヴァから運んできた大理石で出来ていた。ラ・ブリアンテ、ル・ボスク、ル・モンマラン、ラ・バリュ、ル・コロンビエはオレンジの庭、噴水、銅像で飾られているか、もしくは飾られていた。庭はときおりシナノキの横木が掛かっている拱廊の裏、芝生の先でマツの列柱を抜けて、浜へと通じる坂を下る。花壇のチューリップのうえでは海が船舶や穏やかさ、時化を露わにしている。
農民、船員、耕作人はそれぞれが庭付きで小さく白い農家屋の持ち主である。庭の食用草、スグリ、バラ、アイリス、キンセンカのなかには、カイエンヌのお茶の木、バージニアの煙草の苗、中国の花、やがては別の海岸と他の太陽の思い出が何か見出される。これが地主の道のりと地図になっている。海岸の所有者はノルマンディの美しい種族の出である。背が高く細身で軽快な女性たちが灰色のウールでできたコルセットを付け、光沢素材と縞絹の短いペチコートを履き、端を彩った白い靴下を着用している。先がベレー帽型に持ち上がっていたりベールのように漂っているボンバジンやバチストの大きなコアフで額は陰っている。幾つにも枝分かれしている銀の鎖が左側に掛かっている。春には毎朝、その北部の娘たちが、また国を侵略しにきたかのように舟から降り、籠入りの果物と貝殻に詰めた凝乳の塊を市場まで運ぶ。花や牛乳で一杯にした頭上の黒い壺を片手で支えるとき、白い頭巾の紐が青い目や薔薇色の顔、滴で覆われたブロンドの髪に添うことほど優雅なものは、最も若いものが「未来[スクルド]」であるエッダのワルキューレ、もしくは壺をもつアテネの女像柱にもなかった。この絵はまだ似るだろうか? あの女性たちは、おそらく、もういない。わたしの記憶の他には何も残っていない。
母のもとを去り、フージェール近郊にいた年長の姉たちに会いにいった。わたしはシャトーブール夫人宅にひとつき滞在した。塔と戦によって名高いサン=トーバン=デュ=コルミエ近くで彼女が所有していたふたつの別荘ラスカルデとル・プレシは岩とヒースと森の地帯に位置していた。姉は管理人として、風変わりな事件に巻き込まれる、かつてイエズス会士であったリヴォレ氏を抱えていた。
彼がラスカルデの管理人に任命されたとき、ちょうど一家の父であったシャトーブール伯爵が亡くなった。伯爵と面識のなかったリヴォレ氏は小さい城館の守衛となった。そこでひとり就寝した初めての夜、彼の住まいにナイトキャップを被りガウンを着た青白い老人が小さな明かりを運び入れるのを見た。幽霊は暖炉に近づき、手燭をマントルピースのうえに置き、火を再び灯して、肘掛け椅子に座った。リヴォレ氏は全身震えていた。二時間の静寂のあと、老人は立ち上がり、また明かりを手にして、扉を締めながら部屋の外へと出ていった。
次の日、管理人はその出来事を小作人たちに語り、小作人たちは亡霊の描写をもとにそれがかつての主人であったと主張した。話はそこで終わらなかった。もし森の中で振り返れば、リヴォレ氏は霊を目にした。畑の石垣を乗り越えなくてならないときには、影が石垣に跨っていた。ある日、この哀れな偏執者は言ってしまった: 《シャトーブールさん、放っておいてくれませんか》。亡霊は返事をした: 《いいや》。冷ややかで現実的、想像の輝きは僅かであった人物のリヴォレ氏は、つねに同じやり方で、同じ信念をもって、望まれた分だけ話をした。
少ししてから、脳症に罹った勇敢な将校に伴いわたしはノルマンディを訪れた。われわれは農民の家に宿泊することになった。地主の貸し出した古いタペストリーがわたしの寝台と病人のそれとを隔てていた。そのタペストリーの裏で、患者は瀉血された。苦しみを和らげるため、氷風呂に浸からされた。この拷問のさなか、彼は震え、爪は青くなり、顔は紫色になって軋み、歯は食いしばられ、頭は禿げ、長いひげは鋭い顎から垂れ、痩けて濡れた裸の胸の服と化していた。
その病人は心動かされると、自分の涙を避けようとして雨傘を開いた。もしその手法が涙液にたいして確かであったのなら、発見者の像を立てなくてはならなかっただろう。
塚のうえに建てられた集落の教会の墓地を散策しに行くときだけが、好ましい瞬間であった。わたしの伴侶は死人と何羽かの鳥、そして沈みゆく太陽であった。パリの社交界、わたしの最初期、わたしの亡霊、距離としてはとても近く時間にしてみればとても遠いコンブールの森を夢にみていた。哀れな病人のもとに帰った。盲人を導く盲人であった。
嗚呼! 一突き、一回の転落、一個の道徳的苦痛がホメロス、ニュートン、ボシュエから天性を奪い、深い哀れみを掻き立て苦い永遠の後悔を抱かせるのではなく、そうした神的な人物を微笑の対象としてしまうだろう! わたしが知り、愛した多くの人々は、感染性の細菌をわたしが運んできたかのように、わたしの周りで判断を狂わせてきた。セルバンテスの傑作とその容赦なき愉快さを、わたしは悲しき見解によってのみ説き明かす。存在全体を考慮するとき、もしくは善と悪を勘案するとき、われわれは忘却へと繋がるすべての出来事を、自分自身から逃れるための方途として望みがちである。陽気な酒飲みは幸せな生き物である。宗教を別にすれば、幸福とは自分に気づかず、生を感じることなく死に至ることである。
わたしは快癒した同胞を連れ帰った。
わたしとブルターニュに戻った夫人ルシルとファルシー夫人はパリ再訪を望んでいた。だが地域での混乱のためわたしは留め置かれた。三部会は12月末に招集された(1788)。レンヌ市とそれに引き続くブルターニュの他の自治体が「竈税」にかかわる問題が解決されるまで他の事案に携わらぬよう代議士に命令した。
貴族階級の長となっていたボワジュラン伯爵はレンヌへの道を急いだ。紳士たちは個々人への手紙でもって呼び出され、そこにはわたしのように、討議の声を持つには若すぎる者たちが含まれていた。攻撃を受けることもあり得たわたしたちは票に加えて、人手を数えなければならなかった。われわれは持ち場へと赴いた。
三部会開催前にいくつかの会合がボワジュラン氏の屋敷で催された。わたしがかつて目撃した混乱のすべての場面が再現された。ゲ騎士、トレマルガット侯爵、背が高くすらりとして「アスパラガスのベデ」と名付けられていたもう一人のベデとの対比でその太さゆえに「アーティチョークのベデ」と呼ばれていたわたしの叔父ベデ伯爵らが、長広舌を振るうために登っていた椅子をいくつか破壊した。海軍将校で義足のトレマルガット侯爵は自身の身分ゆえに沢山の敵をつくった。ある日、貧しい貴族の子どもたちを教育する軍学校の設立について話し合った。第三身分の議員は声を上げた: 《そして、われらの子どもたちは何を授かるというのでしょう? —— 病院》と、トレマルガットは返答した。聴衆へと落ちた言葉は急速に芽生えた。
のちに政治や軍のなかで見出すことになるわたしの性格におけるひとつの傾向がこれらの集会のなかで垣間見られた。同僚や同朋が熱くなればなるほど、わたしは冷めていった。裁判所や大砲に火がつけられるのを無関心に眺めていた。発言や砲弾を称えたことは一度もない。
わたしたちの審議の結果、貴族は手始めに一般的な事柄について論じ合い、ほかの問題の解決を待ってから竈税に取り掛かることとした。この決議は真っ向から第三身分のそれに反していた。[ピエール・]パトラン的な人物で、節度があり、上品さを欠いてはいない軽い歯音不全の発音で話をする、宮廷での成功を画策したレンヌの司教が代表を務めていた際にとくに自分たちを軽んじた聖職者たちに紳士は大した信頼を寄せていなかった。パリからやってきた凡庸な物書きがレンヌで書いていた新聞紙『人民の見張り番』は憎悪を煽った。
宮殿広場のジャコバン修道院で三部会は開催された。われわれはすでに見たような取り決めをもって会議場へ入った。居場所を定めると、直ぐさま取り囲まれた。1789年1月25、26、27、28日は不幸な日であった。ティアール伯爵は僅かしか部隊を率いていなかった。優柔不断で逞しさを欠いていた盟主の彼は動きは見せたが何の行動も起こさなかった。モローが学長であったレンヌ法学校はナントの若者たちを呼び戻すため使いを送った。総勢四百人が帰り着き、指揮官が懇願したものの、町の侵略を防ぐことはできなかった。シャン=モンモランや喫茶店における様々な意味での会議はやがては流血を伴う衝突となった。
部屋に閉じ込められていることに疲れたわれわれは手に剣を握り、外へ飛び出す決心をした。大変美しい光景であった。議長の合図で一斉に剣を抜いた、こう叫びながら: 「ブルターニュ万歳!」。そして方策のない守備隊のように、包囲するものたちの腹を超えるため、憤怒の退場を実施した。人々は喚きと投石、鉄の棒による突きと拳銃の発砲とでわれわれを出迎えた。再び囲おうとする波の塊のなかにわれわれはひとつの穴を開けた。何人もの紳士が負傷し、引き摺られ、打ち破られ、痣や挫傷で覆われた。大変な苦労を経て、自由の身となり、各自の住まいへ戻った。
そのあとは紳士、法学生、そしてナントから来たその友人のあいだでの決闘が続いた。そうした決闘のうち一つは王宮広場で公然と執り行われた。戦いを挑まれた海軍将校、信じがたき活力で受けて立ち、若き挑戦者たちの喝采を得た古株ケラリューが名誉を保った。
また別の人だかりが形成されていた。モンブシェ伯爵は群衆のなかにウリアックという名の学生がいるのをみて、こう発言した: 《お兄さん、これはわたしたちの問題ですよ》。彼らの周りで人々が円形に並ぶ。モンブシェはウリアックの剣を弾き飛ばし、それを彼に返す。人々は抱き合い、群衆が四散する。
少なくとも、ブルターニュの貴族階級は誉れなしには死に絶えなかった。州憲法の基礎法どおりの招集がかからなかったため、三部会の代議士となることを拒んだ。大人数で王軍に加入しに行き、コンデ軍として、もしくはヴァンデ戦争のなかでシャレットとともに滅ぼされた。国民議会へ貴族が参加していた場合、議会の大多数に関する何事かに変化は認められたであろうか? それはほとんどあり得ない話である。社会的大変革のさなか、事実を前にして特質ゆえの誇り高き個人の抵抗は無力である。それでも、ミラボーの天分を有しながら反対の意見をもつ人間が、ブルターニュの貴族階級に居場所を見出したとき、何を生み出すかは言い得たものではない。
若きボワシュとわたしの学友サン=リヴルは会合の前に貴族の議席へと赴くなかで亡くなった。前者は補佐役を務めていた父親が徒らに庇った。
読者よ、あなたはここで立ち留まらなくてはならない。革命が流さなくてはならなかった最初の血の滴りが流れ出るのを見よ。天は幼少期の同朋の血管から血が出てくるのを望んだ。サン=リヴルの転落の代わりにわたしの転落を仮定しよう。わたしの事に関しては、ただ名前だけを取り替えて、大供儀の始まりによって犠牲となった者に関して語られたことが語られていただろう。《「シャトーブリアン」という名の紳士が三部会の議場へと赴くなかで殺された》。わたしの長い話がこの短い言葉に置き換わっていただろう。サン=リヴルは地上でわたしの役割を演じていただろうか? 騒ぎと沈黙のどちらに向かっただろうか?
前に進もう、読者よ。血の川を渡ろう、あなたがそこから離れていく古い世界と、あなたがそこで亡くなることになる新しい世界の入り口を永遠に隔てている川を。
西暦1789年、われわれ、引いては人類の歴史上でとてもよく知られている年、わたしは故郷ブルターニュのヒースに見つかる。わたしはかなり遅れてしか州を離れられず、パリに着いてもレヴェイヨン家での略奪のあと、全国三部会の開会、国民議会での第三身分による憲法策定、球戯場の誓い、6月23日の親臨会議、そして聖職者と貴族の第三身分との合流のあとであった。
道中では大きな動きがあった。それぞれの村では農民が馬車を止め、パスポートの提示を要求し、旅行者を尋問した。首都に近づくほど混乱は激しくなった。ヴェルサイユを横切る際、オランジュリーのなかに駐屯部隊を、庭には停止した砲兵の隊列をみた。宮殿広場に建てられた国民議会の仮設会議場、そして物好きや、城の人々、兵士の中を行き来する代議士たちがいた。
パリの通りはパン屋の扉の前に屯する群衆でごった返していた。通行人は車止めの先で論じあっていた。商人は各々の店から出てきて、聞き、店の扉のまえで情報を伝えた。パレ・ロワイヤルでは扇動者たちが塊になった。カミーユ・デムーランが集団のなかで突出しだした。
ファルシー夫人、夫人ルシルとともにリシュリュー通りにある家具付きのホテルに腰を据えてすぐ、反乱が勃発した。人々は隊長の指示で逮捕されていた何名かのフランス衛兵を解放するためアベイ[牢獄]に足を運ぶ。アンヴァリッドに駐屯していた砲兵連隊の下士官たちが彼らに加わる。軍隊からの離脱が生じ始める。
強情さと弱さ、虚勢と恐怖で綯い交ぜになった宮廷は時折手を引き、時折抵抗を望みながら、部隊の追放を求めるミラボーからの挑発を許し、撤退には不同意とする。対立を容認し、原因は破壊せず。パリでは、軍隊がモンマルトル下水溝経由で到着しており竜騎兵は障壁を強行突破する予定だという噂が広まる。僭主の侍従に投げつけるため、通りの舗装を剥がし、五階まで舗石を搬入することが推奨される。みな仕事に取り掛かる。混乱のただなかで、ネッケル氏が退任の指示を受ける。ブルトゥイユ氏、ラ・ガレジエル氏、元帥ブロイ氏、ラ・ヴォーギョン氏、ラ・ポルト氏、そしてフロン氏から成る内閣へと改造される。彼らはモンモラン氏、ラ・リュゼルヌ氏、サン=プリースト氏、そしてニヴェルネ氏と入れ替わった。
新たにやって来たブルターニュの詩人がヴェルサイユに連れてゆくようわたしに頼んだ。帝国の転覆の真っ最中でも、庭園と噴水を見に訪れる者たちがいる。紙を塗りたくる連中は最大の出来事が生じている間にも自らの執着にしたがって自分を棚に上げることのできるこの能力を特段に有している。彼らにとってみれば自分の文やストローフィが全ての代わりとなる。
ミサの時刻にわがピンダロスをヴェルサイユの回廊へと連れていった。牛眼の間は輝かしかった。ネッケル氏の追放は人々の精神を高揚させた。勝利は揺るぎないものだと思われた。もしかすると群衆に紛れていたサンソンと[アントワーヌ・]シモンは王家の喜びの目撃者だったかもしれない。
王妃がふたりの子とともに前を過ぎていった。その子たちの金色の髪は冠を待ちわびているように見えた。齢十一のアングレーム公爵夫人は清らかな誇らしさが人目を引いた。その家柄の高貴さと若き娘の純真さの美である彼女は『ジュリーの花飾り』でコルネイユが物したオレンジの花のように言うようだった:
わたしは生まれのポンプを有している。
姉の保護下で小さきドーファンは歩み、ドゥ・トゥシェ氏は自分の生徒に付き従っていた。氏はわたしを見ると、親切にも王妃に御目見させた。微笑みながら視線を送っていた彼女は謁見の日に既にわたしになされた優雅な挨拶をされた。すぐに失われなければならなかったあの眼差しを忘れることなどない。マリー・アントワネット、1815年の発掘で不幸な女性の頭部が発見された際、その笑顔の記憶(恐ろしいこと!)が王家の娘のあごをわたしに思い出させたほどしっかりと微笑みのなかで彼女は口の形を作っていた。
ヴェルサイユで生じた衝撃の反響がパリでも鳴り響いていた。帰路では、黒縮緬で覆われたネッケル氏とオルレアン公の胸像を持ち運ぶ群衆の流れに逆らわなければならなかった。ひとびとは叫んだ: 《ネッケル万歳! オルレアン公万歳!》そしてこの叫びのなかでこのうえなく大胆で思いがけない声が聞こえた: 《ルイ十七世万歳!》。もしわたしが貴族院で喚起しなければ、家族の墓碑銘のなか忘れ去られていただろう名前のこの子よ、万歳! 譲位するルイ十六世、王位に就けられるルイ十七世、摂政に任命されたオルレアン公、一体何が起こっただろうか?
ルイ十五世広場では、「王立ドイツ[騎兵連隊]」の長であったランベスク大公が人々をチュイルリー庭園に斥け、ひとりの老人に怪我を負わせる。いきなり警鐘が鳴る。研ぎ屋は押し込まれ、アンヴァリッドからは三万挺の銃が盗み出される。槍、棍棒、熊手、サーベル、拳銃が装備される。サン=ラザールは掠奪に遭い、柵が燃やされる。パリの有権者は首都政府の実権を握り、夜には六万人の市民が組織化し、武装し、国民軍として装備を整える。
7月14日、バスティーユ奪取。何人かの傷痍軍人と臆病な総督へのこの襲撃をわたしは観客として目撃した。もし扉が閉まっていたなら、その要塞に人々が入ることなどなかっただろう。塔の上にすでにあがっていた大砲から傷痍軍人ではなくフランス衛兵隊によって放たれた二三発の砲弾を見た。隠れ場から引きずりだされたド・ローネーは、幾千の侮蔑を耐え忍んだあと、市役所の階段で撲殺された。商人頭フレッセルは拳銃弾一発で頭を割られた。おめでたい心なし達が大変美しいと認めた光景がこれである。こうした殺人のただなかで、オトやウィテッリウス支配下のローマにおける騒乱でのように、ひとびとは狂宴に身を委ねた。居酒屋で征服者だと宣言された幸福な酔っぱらい「バスティーユの征服者」は辻馬車で引っ張り回された。娼婦と「サン=キュロット」が場を支配し、お供した。凱旋の最中に疲れて死んだ何人かを含む英雄たちを前にして道行く人は畏れ敬う姿を晒した。バスティーユの鍵は複製された。世界の四部分に点在している重要な間抜けたち全員に送られた。何度わたしは富を逸しただろうか! もし観客としてのわたしが征服者の名簿に名を連ねていれば、今ごろ年金を得ていたかもしれない。
専門家はバスティーユの死体解剖に走った。テントの下では仮設の喫茶店が開業した。サン=ジェルマンのフェアやロンシャン[王立修道院]のようにひとびとが詰め寄せた。つむじ風のなかその石が投げ落とされる塔の足元で多くの馬車が分列で行進したり止まったりしていた。様々な高さのゴシック様式の残骸のうえで優雅に着飾った女性たち、流行りの格好をした若者たちが、壁を取り壊す半裸の作業員と混じり合い、群衆の喝采を受けた。この会合では最も著名な演説家や最も知られた文筆家、最も名高い画家、最も評判高い俳優と女優、最も持て囃された舞踏家、この上なく高名な異邦人、宮廷領主、欧州の大使たちが一堂に会した。古いフランスはここに来て終わりを迎え、新しいフランスの始まりを告げていた。
どんな出来事も、それ自体が如何に悲惨または忌まわしくあろうと重大な状況において時代を画するのであれば、軽率に取り扱われるべきではない。バスティーユ奪取で目撃しなくてはならなかったもの(そしてそれ以来目撃されなかったもの)、それは人々の解放が招いた暴力行為ではなく、その行為の結果としての解放そのものである。
その事故、糾弾すべきであったもの、を讃え、達すべき人々の命運や、風習とアイディアと政治権力の変化、血腥い大赦のようにバスティーユ奪取がその時代を切り開いた人の種の革新を、未来には探し求めに行かなかった。残虐な怒りが荒廃を生み、その怒りの下では、荒廃のなかに新しい建造物の基礎を築くことになる知性が潜んでいた。
だが国民は倫理的事実の深刻さではなく、物質的事実の深刻さにかんし誤った。バスティーユは彼らの目には服従の記念品に映った。自由の処刑場のように、モンフォコンの十六本の柱に対してパリの入り口に建てられたかのようだった。国家の要塞を破壊し尽くしながら、軍の軛を断ち切ったと信じ、解雇した軍隊の穴埋めをするために暗黙の契約を取り交わした。兵士となった人々が生み出した驚異については周知のところである。
王権失墜の先触れかのようにバスティーユ崩壊の騒ぎで目覚めたヴェルサイユは自惚れから消沈状態へと移った。国王は国民議会へと駆けつけ、議長と同じ席で演説を行う。部隊への退却命令を発表し、祝意のなか宮殿へと引き返す。なんとも無益なひけらかし! 党は対立する党派が転向しようと全く信頼しない。自由が降参しようと、権威が損なわれようと、敵からは何の慈悲も引き出しえない。
八十人の代議士たちが首都で和平を宣言するためヴェルサイユを旅立つ。イルミネーション。バイイ氏がパリ市長に任命され、ラ・ファイエット氏が国民衛兵の指揮官となる。哀れだが尊敬に値するその学者のことをわたしは不幸な出来事でのみ知り得ている。革命はすべての期間に渡って人を支配する。ある者は革命を最後まで追うが、他方は始めた革命を終わらせない。
すべてが飛散した。宮廷人はバーゼル、ローザンヌ、ルクセンブルク、ブリュッセルへと出立した。逃避行中のポリニャック夫人は帰還中のネッケル氏と遭遇した。アルトワ伯爵とその子息、コンデ家が亡命した。彼らは高位聖職者や一部の貴族を引き連れていた。反乱兵に怯えた将校たちは自分たちを遠くへ押し流すことになる激流に屈した。ルイ十六世だけは、二人の子どもと何人かの女性、王妃、「メダム[アデライードとヴィクトワール]」、そしてマダム・エリザベートと共に、国民の前に留まった。ヴァレンヌ逃亡まで残っていた「ムッシュ[ルイ十八世]」は兄の助けに余りならなかった。名士会では頭数による投票に同意したことで革命の命運を定めたものの、革命には歯向かわれた。氏、「ムッシュ」、は国王をあまり好まず、王妃を理解せず、どちらからも愛されてはいなかった。
17日、市役所にルイ十六世が訪れた。旧教同盟の修道士であるかのように武装した十万人の男たちが出迎えた。それぞれ泣いていたバイイ氏、モロー・ド・サン=メリ氏、ラリー=トランダル氏から演説を受けた。最後の人物は涙もろいままであった。国王は自分の番になると心が和らいだ。帽子にはでかでかとした三色帽章を付けていた。その場で「誠実な人物、フランスの父、自由な人民の王」であると、その自由によって誠実な人物、父、王の首を打ち落とそうと心構えしていた人民に、宣言された。
その和解から幾日も経たぬころ、姉や何人かのブルターニュ人とともにわたしは家具付きホテルの窓辺にいた。われわれは叫び声を聞く: 《扉を閉めて! 扉を閉めて!》。襤褸を着た集団が通りの一端から到着する。遠くからはよく見ることのできない二本の旗がその集団の真ん中から持ち上がった。前進してきたとき、マラーの先駆者たちがそれぞれ槍のさきに突き刺して運んでいる乱れ髪の変わり果てた二級の首を見分けた。フロン氏とベルティエ氏の首だった。みな窓辺から退いた。わたしは留まった。殺人者たちはわたしの前で立ち止まると、歌いながら、跳ね回りながら、わたしの顔へと青白い肖像を近づけるため飛び上がりながら、槍を突き出した。首のひとつは目が眼窩から飛び出しており、死者の暗い顔に垂れ下がっていた。槍は開いた口を突き抜けて、歯は鉄を噛んでいた。《悪党め!——抑えることのできなかった憤りに満ちてわたしは叫んでいた——それが自由を理解した結果か?》。もし銃を所持していたなら、狼を撃つようにして卑劣漢に向けて発射しただろう。彼らは喚き声をあげ、正門を押し破って犠牲者たちの首にわたしのそれを加えるため扉を繰り返し叩いた。姉たちは気を失った。ホテルの臆病者たちはわたしに非難を浴びせた。追われていた虐殺者たちは住居に侵入する余裕がなく、離れていった。あの首とそれから直ぐに出くわすことになるその他の首がわたしの政治的傾向を改めた。わたしは人食いの宴を忌み嫌った、そしてフランスを離れていくつかの遠い国へと向かうアイディアが精神のうちで芽生えた。
テュルゴーの第三の後継者として、カロンヌとタブローのあと、7月25日に内閣へと呼び戻され、お祭り騒ぎで歓待を受けたネッケル氏はすぐさま出来事に取り残され、人気が落ちた。あれほど厳かな人物を大臣の座に上げたのはペゼ侯爵ほどに凡庸で軽薄な男が有するノウハウであったというのがこの時代の特異性のひとつになっている。フランスにおける税のシステムを公債システムに置き換えた『財政報告書』はアイディアを掻き立てた。女性たちは支出と収入にかんして話し合った。初めて、数の仕組みに何かが認められたか、認められたと信じられた。[アントワーヌ・レオナール・]トマ風の色で描かれたその計算は財務長官の最初の名声を確立した。上手な金庫係、だが金策なしの経済学者。威厳はあるが、膨れあがった作家。誠実な人物、だが高徳のない銀行家は、大衆に作品を説明したあと、幕開けと同時にいなくなる前舞台の一先人であった。ネッケル氏はスタール夫人の父である。後世の記憶のなかで自身の本当の肩書が、娘の名誉になるとは、彼の虚栄心がほとんど考えを許さなかったことである。
8月4日の国民議会の午後の審議のなかで、バスティーユに倣って、君主制は解体された。過去への憎しみから貴族への非難の声を上げる者たちは、デギュイヨン公爵とマチュー・ド・モンモランシー双方の支持を受けていたノアイユ子爵が革命派の思い込みの対象になった建造物を倒した貴族の一員であったということを忘れている。封建制の代議士の発議で、封建法、狩猟権、鳩を放し飼いする権利、野うさぎ刈りの土地の使用権、十分の一税と貢納、身分特権、市と州の特権、人役権、領主裁判権、売官制は廃止された。古来の国制への最大の一撃は紳士たちが食らわせた。パトリキが開始した革命を、プレブスが終わらせた。古いフランスが栄光をフランスの貴族制に負っていたように、もしフランスに自由があるのであれば、新しいフランスの自由は貴族制に起因したものである。
パリ近郊で野営していた軍隊は送り返された、そして、国王の意志を引き裂いた矛盾する忠告のひとつによって、ヴェルサイユにフランドル連隊が呼ばれた。その連隊の将校たちには近衛兵からの食事が振る舞われた。頭が熱くなった。宴の最中に、王妃がドーファンとともに現れた。王室を祝しての乾杯が執り行われた。今度は国王が現れた。お気に入りの感動的なエールを軍楽団が演奏する: 『おお、リチャード! おお、わたしの国王!』。この知らせが広まるやいなや、反対の意見がパリを捉える。デスタン伯爵とともにメスへ逃亡するためルイが権利の宣言の批准を拒否したと声高に言われ、その噂をマラーが伝える。すでにマラーは『人民の友』を書いていた。
10月5日が訪れる。わたしはこの日の出来事の目撃者ではまるでなかった。6日早くに話が首都に達した。同じ頃、われわれに国王訪問が告げられる。客間では臆病でありながら、公共の場に出るとわたしは勇敢になった。自分自身が孤独もしくはフォルムのために作られたと感じていた。シャンゼリゼに駆けつけた。まず大砲が現れ、その上ではハルピュイア[強欲な女]、女盗賊、馬乗りになった娼婦たちが最も卑猥な発言をし、最も卑劣な仕草をしていた。それから、全年齢、全性別の大群の真ん中を近衛兵が国民衛兵と帽子や剣や帯を交換しながら徒歩で進んだ。馬はそれぞれ二三の下品な女たち、服が緩んだ酩酊状態の汚れたバッカイたちを乗せていた。続いて、国民議会の代表がやって来た。国王の馬車が跡を追った。槍と銃剣の森の、埃っぽい暗闇のなかで車輪を回転させた。布切れを着た屑屋や、太ももの前掛けが血まみれになり、腰に露出した包丁を付け、シャツの袖は捲りあげた肉屋が、扉の横を歩いていた。他の黒いアイギパンたちは屋上席に登っていた。他は従者の踏み台や御者台にしがみついていた。小銃と拳銃の弾が発射された。こう叫んでいた: 「パン屋、女パン屋、そしてパン屋の小僧がやってきたぞ!」。聖ルイの子孫を前に、旗として、セーヴルの鬘屋が髪を巻き上げ白粉を塗った近衛兵の二級の首をスイスの槍斧が空に掲げていた。
天文学者バイイは、市庁舎にてルイ十六世に対し、「人間味のある誠実な敬うべき」人民が国王を「打ち倒した」ばかりだと宣言し、国王の側は、「とても心打たれ、とても満足し」、「自発的に」パリにやって来たと述べた。当時の全党派、全人間の名誉を貶めた暴力と恐怖の、恥ずべき虚偽。ルイ十六世は偽物ではなかった。弱かったのだ。弱さは虚偽ではないが、その役目を担い、その機能を果たす。聖者そして殉教者の国王が有する徳と不幸が吹き込むはずの畏敬の念は人間の全判断を殆ど冒涜的にする。
代議士たちはヴェルサイユを離れ、10月19日に大司教区の一間で初めて審議を行った。11月9日、チュイルリー近くの屋内馬術練習場構内に移った。1789年の残りの期間は、聖職者を丸裸にし旧司法官職を破壊しアッシニアを生み出した政令や、最初の調査委員会によるパリ・コミューンの法令、ファヴラ侯爵を訴追するための判事への委任を目撃することになった。
帰すべき非難の如何によらず、それでも憲法制定議会は、成果の広大さほどに取引の規模によっても、決して国家には現れぬもっとも華々しい民間修道会であり続けている。彼らが言及を避けたり適切に解決をしないほど高位な政治問題はない。もし三部会の陳情書に拘泥し、それ以上先に進むことを試みなかったならどうなったであろうか! 三世紀ものあいだ、人の経験と知性が宿し、見出し、練り上げてきたすべてがその陳述書に見つかる。そこでは旧君主制の様々な悪習が指摘され、治療薬が提案されている。ありとあらゆる自由の種類が要求されている、報道の自由でさえも。工業、製造、商業、道路、軍隊、税、財、学校、公教育、などのためのすべての改善が求められている。われわれは益もなく罪の深淵と栄光の山を横切った。共和国と帝国は何の役にも立たなかった。帝国は武器の残虐な力を設え、共和国がそれを可動させた。帝国は中央集権、わたしは悪だと感じるが地方行政が破壊され無知による無政府状態が皆の頭にあった当時単独で地方行政を置き換えることのできたかもしれない強力な行政を残した。それを除けば、憲法制定議会のあと、われわれは一歩も前進しなかった。彼らの仕事は、科学の限界を押し広げると同時に定めた古代の偉大な医者のそれのようである。ここでその議会構成員の何名かについて語りたいが、まずは全員を概括し支配するミラボーのところで立ち止まろう。
人生の混乱と偶然によって最大の出来事や前科者、誘拐犯、冒険家の存在と関わった貴族階級のトリブヌスで民主派の代議士ミラボーはグラックス、ドン・ファン、カティリナ、グスマン・デ・アルファラーチェ、リシュリュー枢機卿、レ枢機卿、摂政時代の極道者、革命の野蛮人に負うところがある。武装邸宅やダンテが讃えた強大な反乱分子の幾らかを留めた亡命フィレンツェ人一族「ミラボー」家には更に負っていた。フランスに帰化し、中世イタリアの共和的精神とわれわれの中世における封建的精神が非凡な人物たちの継承のひとつにおいて巡り合うこととなった一族。
血族特有の美を根底に成立したミラボーの醜さは、「アリゲッティ」家の同胞ミケランジェロの『最後の審判』に見てとれる力強い人物像をある種生み出していた。疱瘡が演説家のかんばせに刻んだ皺は、むしろ、炎を浴びて出来たかさぶたに似たのだった。彼の頭は自然が帝位か絞首台のために鋳造したようで、腕は国家を抱えるか、ひとりの女性を連れ去るために削り出したかのようだった。人民を見つめながら鬣が振れれば、それが人民を捉えることになった。お手を持ち上げ、爪を見せれば、プレブスは狂気に走った。審議が巻き起こす恐ろしい騒乱のさなか、暗く醜く動きのない演壇の彼をみた。混乱の中心で形なく、むなしく、ミルトンの混沌を思い出させた。
サン=シモンのように不滅の頁をいい加減に書いた父や叔父の何かしらをミラボーは有していた。演説は他人が準備したものであった。自分の精神がアマルガムのように自分の組織と混ぜ合わすことのできるものをミラボーはそこから選んだ。そのまま読み上げたときには、くだくだしくなった。彼自身を解き明かす偶然を含んだ言葉がそこにないと気付かれた。活力は悪習により引き出したものであった。冷ややかな気性から生じたものではなく、奥深く、焼けるような、波乱に満ちた情熱と関係していた。風紀にたいする犬儒派的態度は倫理感覚を麻痺させ、ある種の野蛮さを社会に蘇らせた。文明のこうした野蛮さは、ゴート族のように破壊はできても、彼らのように創りだす力は欠いている。ゴート族は処女なる自然の並外れた子どもであったが、前者は搾取された自然の怪物じみた末成りである。
わたしは二度宴の場でミラボーと会っており、一度はヴォルテールの姪ヴィレット侯爵夫人の邸宅で、次はパレ・ロワイヤルにおいてシャプリエが知り合わせた反対派の代議士たちと一緒の機会であった。シャプリエはわたしの兄やマルゼルブ氏と同じ肥やし車に乗って処刑台へと向かった。
ミラボーは大いに語ったが、とくに自分自身のことについて話をしていた。獅子の息子、彼自身も獅子ではあるが頭がキメラのそれ、行為に対しとても積極的な人物、は全くもって小説であり、全くもって詩であって、想像と言葉とですっかり熱狂していた。ひとはそこに、感情で高まり犠牲を厭わない、ソフィの愛人をみた。《見つけたのです——と彼は言った——この可愛らしい女性を。…彼女の魂がなんであったのか、荘厳なときのなかで自然の手が形作った魂がなんであったのか、わたしは知っていました。》
ミラボーは無味乾燥した議論で雑多にした愛の物語と隠居の願いとでわたしを魅了した。更には他の部分でも興味を引いた。彼の父はわたしの父のように絶対の父権的権威による揺るぎない伝統を保ち、彼はわたしのように父から厳しい扱いを受けていた。
偉大な会食者は外政についての話を進め、内政にかんし殆ど何も言及しなかった。だが後者こそが彼の関心事だった。けれども、自らの優越を宣するものたちへの尊大な軽蔑の言葉を、不幸と過ちに対し彼らが装っている無関心ゆえ、漏らした。ミラボーは生まれつき寛大で、友情に敏感で、侮蔑は簡単に許した。非道徳的なところがあったにも関わらず、良心は曲げられなかった。自身のためだけに腐敗し、真っ直ぐで堅固な彼の精神は殺人を知性の卓越とは見做さなかった。畜殺場とごみ捨て場への称賛の念は微塵も抱いていなかった。
それでも、ミラボーは矜持を欠いてはいなかった。法外なまでに自慢していた。第三身分によって選出されるために布屋として身を立てたものの(貴族階級は彼を拒否して誉れ高く常軌を逸した)、自身の出自には惚れていた。「四つの小塔の狭間に巣食う凶暴な鳥」と彼の父は言った。宮廷に現れ、四輪馬車に乗り、国王と狩りに出たことを彼は忘れていなかった。伯爵の称号を与えるよう求めた。自らの彩色を好んで、皆がやめても人に制服を着せていた。どんな場面でも時宜を得ず「親戚」のコリニー提督を引き合いに出した。彼をリケと呼んだ「氏」は《ご存知でしょう——と記者に激昂しなから言った——あなたのリケとなら三日でヨーロッパを混乱させられたと?》。この破廉恥でよく知られた冗談を繰り返した: 《ほかの一族であれば、子爵である弟は機知の人物かつ品性下劣でしたでしょう。わたしの一族では、彼は間抜けで、かつ品行方正です》。伝記作家はこの言葉を、恥ずかしがりながら一家のほかの人物たちと自分を比較する子爵のものとする。
ミラボーの感情の奥底は君主主義的であった。こうした美しい言を発した: 《君主制にかんする迷信からフランス人を解放し、崇拝に置き換えたかった》。ルイ十六世の眼下に置かれることが期待された手紙のなかで、こう記した: 《大規模な解体作業のためだけであったなら働かなかったでしょう》。しかし、これが彼に生じた: 悪用された才能を罰し、われらの成功を悔い改めさせる天。
ミラボーは二つの梃子で世論を動かした。一方では、軽蔑することで彼が擁護者となった大衆のなかに支点を確保した。他方では、階級への裏切りではあるが、カーストの類似性と共通の関心によって彼らの好感を保った。これらはプレブス、特権階級の擁護者には生じなかったことだろう、その序列に生まれこなかったものは不毛で勝ち目のない特性ゆえに貴族階級を味方にできず、党から追い出されただろう。そもそも高貴さというものは時の娘であるから、貴族階級は即席の貴族を生み出すことはできない。
ミラボーは学派を生んだ。倫理的拘束から解放され、首脳となることが夢見られた。そうした模倣は卑小な変質者しか作り出さなかった。腐敗と窃盗を鼻にかけるものは放蕩者のペテン師に他ならない。自身を淫らだと思うものは単に卑しい。犯罪者であることを自慢するものは単に悪名高いだけである。
ミラボーにとっては時期尚早、宮廷にとっては遅すぎたことだが、ミラボーは宮廷に身売りし、彼は宮廷に買われた。年金と大使職を前にして名声を賭けた。クロムウェルは自身の未来を称号やガーター勲章と交換するところであった。傲慢ではあったが、ミラボーは自身を十分高くは評価していなかった。資金が潤沢となり地位に溢れた昨今では良心の価値が上がり、卑小な自惚れの買収にも数十万フランクと国家における第一級の名誉を要する。墓はミラボーを誓約から解放し、おそらく堪えられなかっただろう脅威からの逃げ場をつくった。彼の生は善のなかでは弱さをみせただろう。死が彼を悪の力のなかに残した。
晩餐会を去りながら、ミラボーの敵について議論した。わたしは彼の横にいて、一言も発しなかった。尊大な目つき、悪徳と天才の目つきでわたしの顔を見た彼は手をわたしの肩に載せて言った: 《わたしの卓越は決して許されないでしょうね!》。未だにあの手の感触がある、炎の鉤爪で魔王がわたしに触れたかのように。
ミラボーが黙った青年に目を留めたとき、わたしの先行きを予感しただろうか? ある日わたしの記憶に召喚されることになろうとは考えたことだろうか? わたしの命運は要人たちの歴史家となるように定められていた。後世へと道連れにしようとわたしを外套に吊り下げることなく彼らはわたしの前を行進していった。
既にミラボーはその記憶を留めなくてはならない者たちの間で行われる変身を遂げようとしていた。パンテオンから下水道へと引きずり出され、下水道からパンテオンへと引っ張り出された彼は、今日では台座として彼に仕える時の完全なる高みへと登りつめた。もはや現実のミラボーを見ることはないが、理想のミラボー、彼が象徴する時代のシンボルか伝説として画家たちが生み出しているようなミラボーが見受けられる。それ故かれはより一層偽物となり、より一層本物となっている。それほどの名声、それほどの役者たち、それほどの出来事、それほどの荒廃から、生き延びたたった三人の人物、三つの大革命時代とそれぞれ結びついた人物たち、貴族制のミラボー、民主制のロベスピエール、独裁制のボナパルト。君主制には何もない。フランスは徳が認めることのない三つの名声に高い支払いをした。
国民議会の審議は、われわれの「議院」の審議が接近しそうもない価値を提供した。混雑した傍聴席に場所を求めて人々は朝早く起床した。代議士たちは食事しながら、喋りながら、大きく身振りしながら現れた。会議室の別々のところへ主張ごとに分かれ塊となった。議事録の読み上げ。この読み上げのあと、合意済みの議題を発展させるか、非常な動きが取られる。それは何らかの法律の味気ない条項を問題とするものではなかった。破壊が日程に含まれないことは稀だった。賛否を論じあった。皆が即席の善悪を提示した。討論は荒れに荒れた。傍聴者も議論に加わり、発言者に対し拍手を送り、称賛し、口笛を吹いて、野次を飛ばした。議長が鈴を鳴らす。代議士たちは議席から議席へと罵り合う。年少のミラボーは相手の襟首を掴んだ。年長のミラボーはこう叫んだ: 《そこの「三十の声」、静粛に!》。ある日、わたしは反対派の王政主義者たちの背後についた。わたしの前には、顔が黒く、体格の小さい、激怒して席から飛び上がり、友人たちにこう言ったドーフィネの紳士がいた: 《剣を手にして襲いかかりましょう、あの物乞いたちに》。彼は多数派の側を指さした。市場の婦人がたは傍聴席で編み物をしながら、話を聞き、ショースを手に持ちながら、泡を吹き、立ち上がって一斉にこう叫んだ: 《街灯に吊るせ!》。ミラボー子爵とロートレック、そして何人かの若き貴族は傍聴席への襲撃を望んだ。
喧騒はすぐに他の騒ぎによって掻き消された。槍で武装した請願者たちが証人席に現れた: 《ひとびとは飢え死んでいます——と彼らは言った——貴族に対する手段を講じて「臨機応変に」対処するときです》。議長はこうした市民に対して慇懃に請け負った: 《謀反人は監視されています——と彼は答えた——議会は正義を成すでしょう》。そこに新しいざわめきが起こった。無政府状態の兆候だと右側の代議士たちは唱えた。左側の代議士たちは、意志を表明する自由が人民にはあり、国民の代表のなかに居座ってさえいる専制主義の扇動者に不平を言う権利があると返答した。このようにして彼らは街灯で待つ主権者たる人民に同僚らを指名した。
午後の審議は午前の審議に勝る破廉恥さであった。シャンデリアの光のなか、更に良くもっと大胆に話をした。当時調馬の間は世界で最も盛大な劇のひとつが繰り広げられる真の劇場であった。最初の登場人物たちは物事の古い秩序に係っていた。彼らの後ろに隠れた小っ酷い代役は殆ど言葉を発しなかった。暴力的な議論の末にわたしが見たのは、雰囲気が平凡で、生気のない灰色の顔をした、規則的な髪結いの、良家の管理人のような、もしくは見た目に気を配る村の公証人のような適切な装いの、代議士が登壇する姿であった。彼は長く退屈な報告をした。みな話を聞いていなかった。わたしは彼の名を尋ねた。それがロベスピエールだった。短靴を履いた人々はサロンから出る準備をして、すでに木靴が扉を叩いていた。
革命前、様々な民族における公的な動乱の歴史について読みながら、わたしは人々がそうした時代をどう生き延びたのかを理解しないままだった。モンテーニュが旧教同盟員やプロテスタントの一団に誘拐される危険を冒さずには巡ることができなかった城の中で溌剌と書いていたことに驚かされていた。
革命はそうした存在の可能性をわたしに理解させた。危機の瞬間は人の生の倍加を引き起こす。解消してはまた組み上がる社会においては、二つの才能の闘争、過去と未来の衝突、新旧の風俗の混交、は退屈な時を後に残さない一時的な配合となって形成される。自由な情熱と性格は上手く統制された街のなかでは決して有することのない精力とともに立ち現れる。法に反すること、義務からの解放、慣習と作法、または危険そのものがこの無秩序の意義に加担する。教育者を追い払い、少しのあいだ自然の状態に帰った休暇中の人類が通りを散策する、許可状が生んだ新たな僭主の軛をはめるまで社会的な歯止めの必要性を再度感じ始めずに。
ギリシャ・オーダーがゴシック様式と邂逅したルイ十二世やフランソワ一世の時代の建築と比較せずして、より正確を期せば、恐怖政治以後プチ=オーギュスタン修道院内部で乱雑に積み上げられた全世紀の瓦礫と墓から成る収蔵物と同列に扱わずして、1789年と1790年の社会をましな形で描き出すことはできないだろう。ただ、わたしの語る残滓は生きていて、止むことなく変化し続けていた。パリの全ての街角で、文学の会合が実施され、政治的な社交が見られ、見世物が行われた。未来の著名人は無名のまま、レテの岸の魂のように、光を享受するまえ群衆に紛れていた。わたしはマレー座でボーマルシェ作『罪ある母』のとある役を務めていたグーヴィオン=サン=シール元帥を見た。フイヤン・クラブからジャコバン・クラブへ、舞踏会や賭博場からパレ・ロワイヤルの集まりへ、国民議会の演壇から野ざらしの演壇へ、ひとは流れた。人気の代議士たち、騎兵隊のピケット、歩兵隊の斥候が通りを行き来していた。髪に粉をつけて、腰に剣を下げ、脇に帽子を抱え、パンプスと絹の長靴下を履くといったフランス人の格好をした人物のあとに、髪を切り、粉はつけず、英国の燕尾服を着て、米国製のネクタイを結んだ人物が続いた。劇場では俳優が報道を行った。平土間の客は愛国的な二行連を詠った。情勢にまつわる戯曲が群衆を魅了した。舞台にはとある神父が登場した。彼はこう野次られた: 《坊主! 坊主!》。そして神父は答えた: 《皆さん、国民に万歳!》。「サ・イラ」の叫びを聞いたあとは、マンディーニ夫妻や、ヴィガノーニ、ロヴェディーノの歌声を聴きに「オペラ・ブッファ座」に駆けつけ、ファヴラの絞首刑を見たあとは、ドゥガゾン夫人、サン=トーバン夫人、カルリーン、幼きオリヴィエ、コンタ嬢、モレ、フリュリー、新人タルマを讃えにいった。
タンプル大通りと、「コブレンツ」と仇名されたイタリアン大通りの遊歩道、チュイルリー庭園の並木道は洒落た女性で溢れた。そこではグレトリの若き娘たち三人が彼女たちの装いのように白と薔薇色に輝いていた。彼女たちは三人とも時を経ずして亡くなった。《彼女は永遠の眠りに就いたのです——と年長の娘のことをグレトリは語った——わたしの膝の上で、生前のように美しく》。サン=キュロットが泥濘を歩き、何らかのクラブの扉のまえに停車していたオルレアン公のフェートンのなかでひとり座る美しきビュフォン夫人が目撃された交差点では馬車の群れが轍を残していった。
貴族社会の優雅さ、そして嗜好が、ラ・ロシュフコーの館や、ポワ夫人、エナン夫人、シミアン夫人、ヴォードルイユ夫人の宴、高等司法官の開け放しにされた客間のいくつかでまた見出された。ネッケル邸や、モンモラン伯爵邸、様々な大臣の館にて、(スタール夫人、デキュイヨン公爵夫人、[ポリーヌ・ド・]ボーモン夫人、セリイ夫人と共に)フランスの新たな顕揚全てと新たな慣習における自由の全てが会した。国民衛兵将校の制服を着た靴の修理屋は跪いて、貴方の足を測っていた。金曜日には黒か白のローブを引きずっていた修道士が、土曜日は丸い帽子を被り、市民的な服を着ていた。剃髪したカプチン会修道士がギャンゲットで新聞を読んでおり、修道女のひとりは気が触れた女性たちに囲まれながらも厳かな態度で座っていた。彼女は修道院を追い出された叔母か姉であった。グラナダでアルハンブラ宮殿の放棄された部屋を旅行者が歩き回るように、もしくはティブルにてシビュラの神殿に並ぶ列柱の下で旅行者が立ち止まるように、世に開かれた修道院を群衆は訪れた。
さらには、廃墟の狭間で、穏やかな空のもと、平和、詩、自然のただなかでの、決闘と愛の波、牢獄での関係、政治的友愛、謎の会合。逃げようとする世界が発する鈍い轟音の方への、その墜落によって情勢の足下に置かれた至福に危害を加えようとする崩壊中の社会の遠い喧騒の方への、永久の誓いと名状しがたい愛撫が入り混じる、うら寂しく、静かで、孤独な、散策。二十四時間目を塞がれたりでもしたならば、もはや居場所を確認できるかは定かではなかった。ある者は革命への順路を辿り、ほかの者は内戦を企てた。ある者は、原住民たちが居住する場所に城を建てる計画を先行させながら、オハイオへと旅立った。ある者は王子に合流しにいった。こうしたものたちはみな快活で、多くの場合財布の中に一スーすらなかった。議会の決定ひとつでとある朝ことが終わると言い切る王党派、まるで同じように期待して浮つき、自由の支配とともに平和と幸福の支配を宣言する革命支持者。こう歌われた:
アラスの聖燭、 プロヴァンスの松明、 われわれを照らさないとしても、 それらはフランスの火を灯す。 触れることはできない、 だが吹き消すことが望まれている。
そしてロベスピエールとミラボーはこのように判断されていた! 《大地のあらゆる権能を以ってしても——と[ピエール・ド・]レストワールは語った——フランスの人民を喋らせないようにすることは、太陽を土に埋めたり、穴のなかに仕舞い込むことほどに、厳しい。》
受刑者であふれる監獄であったチュイルリー宮殿は破壊の祭典の真ん中で聳え立っていた。罪人も荷車と、刈り込み、干した赤色のシャツを待ちながら遊んでおり、窓越しには王女を囲う目眩くイルミネーションが見えた。
何千もの冊子や新聞が蔓延っていた。『使徒言行録新聞』の風刺、詩文、歌が『人民の友』やフォンターヌが執筆していた王党派クラブの『仲裁者』に答える形をとった。『メルキュール』の政治面ではマレ・デュ・パンが同じ雑誌だが文学面のラ・アルプやシャンフォールと争った。シャンスネ、ボネー侯爵、リヴァロル、ミラボー弟(剣のホルバイン、死の軽騎兵の軍隊をライン川上で立ち上げた者)、兄オノレ・ミラボーが、晩餐がてら、カリカチュアと『偉人小年鑑』の制作に興じていた。オノレはそのまま戒厳令もしくは聖職者の財産押収を提案しにいった。銃剣の力を以てせねば国民議会から立ち退かぬと宣言したあと、夜にはル・ジェイ夫人宅に通った。「平等公」はモンルージュの採石場で悪魔に助言を求め、ラクロが幹事の狂宴を主宰するためモンソー庭園へと戻った。未来の王殺しは自身の種族から退行などしなかった。二重に身売りした放蕩のすえに、憔悴するほどの野望へと陥った。すでに衰えていたローザンはメーヌの関所にある小さい屋敷で、ノアイユ氏、[エドゥアール・]ディロン氏、[クロード=アントワーヌ=ガブリエル・ド・]ショワズール氏、ナルボンヌ[=ララ]氏、タレーラン氏、そして今日のわれわれに二三のミイラを残すばかりの当時優雅であった他の何人かと愛撫し合いながら、オペラ座の踊り子たちと共に夜食を取っていた。
ルイ十五世治世末期に不道徳で名高かった宮廷人の大半がルイ十六世の治世においては三色旗のもとで兵籍に入った。ほぼ全員がアメリカの戦争に参加し、綬章を共和主義的色で塗りたくった。凡庸な地位を維持する程度には、革命もかれらを動員した。軍の一級将軍にすらなった。ローザン公、チャルトリスカ王女のロマン的な愛人で、大通りをゆく女ったらし、宮廷の高貴で純潔な専門用語に従うならばあれを「持った」後でこれを「持った」[ロバート・]ラヴレース的人物、ビロン公となったローザン公、国民公会がヴァンデに派遣した指揮官。なんと哀れな! ブザンヴァル男爵、上流社会の腐敗を告発した嘘つきの皮肉屋、息絶えようとしている古き君主制の幼稚さに纏わりつく駅馬車のハエのようなお節介、バスティーユ事件で評判を落とし、単にスイス人であったためにネッケル氏とミラボーによって助けられたこの鈍い男爵。なんと惨めな! そのような人物たちは、あのような出来事と一体何の関わりがあっただろうか? 革命が拡大していくにつれて、玉座から寝返った軽薄な背教者は革命に侮られて捨てられた。革命は彼らの悪徳を欲し、彼らの首を欲した。革命はどんな血も、ラ・デュ・バリーの血すらも、軽視しなかった。
西暦1790年は西暦1789年に下書きされた処置を完遂させた。はじめは国家の手のもとにあった教会の財産は差し押さえられ、聖職者民事基本法が発布され、貴族制は廃止された。
わたしは1790年7月の連盟祭には出席しなかった。かなり深刻な体調不良で寝台に留まっていた。それでもシャン・ド・マルスの手押し車を前もって熱烈に面白がった。スタール夫人はその光景を見事に描写した。タレーラン氏がミサを唱え[ジョセフ=ドミニク・]ルイ神父がそれに仕える姿を目撃しなかったことは、サーベルを腰に付けたタレーラン氏が大トルコ人[セリム三世]の大使への注目を呼び起こした姿をみなかったことのように、悔やみきれない。
西暦1790年にミラボーは人気が落ちた。宮廷との関係は明らかだった。ネッケル氏が誰からも留任を望まれずに大臣職を辞して、隠退した。国王の伯母たちであるメダムは国民議会発行のパスポートを携えてローマへと旅立った。英国からもどったオルレアン公は自身が国王のとても謙虚でとても従順な僕であると宣言した。地表で繁殖しだした憲法の友の会がパリでは、示唆をうけ、その指示を実行することになる、親団体に従った。
わたしの特性のなかで公生活が好ましい気質と巡り合った。みなに等しく生じたことに惹きつけられたのは、孤独というものが人だかりには紛れず、そこでは臆病さと対峙する手段を何も持たないためだった。万人の運動に関与するサロンはそれでも少しばかりわたしの足運びと同調して、自らの意に反し、あらたな知遇を得ることになった。
ヴィレット侯爵夫人と出会ったのはその途上だった。名誉を毀損されていた彼女の夫は国王の弟たるムッシュと共に『パリ新聞』の記事を執筆していた。まだ魅力的だったヴィレット夫人はさらに魅力的だった齢十六の、選集に収めるに相応しい次の詩句をパルニー騎士が差し向けることになる娘、を喪った:
彼女は命を御空に返し、 穏やかに寝入った、 理に口を挟むこともなく: そのようにして笑顔は消える、 そのようにして一羽の詠唱が、 森のなかで痕跡もなく途絶える。
ルーアンに駐屯していたわたしの連隊はかなり後になっても規律を保っていた。議会権力の最期の評決に苦しんだ俳優ボルディエの処刑に関し、人民と小競り合いを起こした。ボルディエは革命前日に首を吊られたが、翌日には英雄であった、もし二十四時間でも長く生きてさえいれば。だが遂に、ナバラの兵士たちの間でも反乱が生じた。モルトマール侯爵は亡命した。将校たちがそれに続いた。わたしは新しい意見を採用しなかったし、拒絶しもしなかった。襲撃への意志が従軍への意志ほど希薄であったため、亡命も望まず、軍職に留まり続けることも望まなかった。わたしは退任した。
全ての羈絆を脱しながら、わたしは一方で兄やロザンボ部長評定官と白熱した論戦を繰り広げた。