『墓の彼方からの回想』試訳

墓の彼方からの回想 フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン

 

第四冊

 コンブールからベルリンへの道のり、若き夢想家から年老いた大臣への道のりは長かった。先行する文章のなかにこれらの言葉が見つかる—— 《一体いくつの場所でこの回想録を書き始めて、一体いくつの場所で終わらせるのだろう?》

 語り終えたところの日付からこの回想録を再開している日まで四年近くが経過した。幾千の物事が生じた。第二の人物たる政治家がわたしのなかで発見された。僅かにしか愛着のないものだ。フランスの自由、合法的な王位存続を可能にする唯一の手段を守った。『保守派』によって、ヴィレール氏を権力の座に就けた。ベリー公爵の死を見届け、彼の遺徳を慕った。すべてと折り合いをつけるために、わたしは遠ざかった。ベルリン大使を拝命した。

 昨日はポツダムの装飾された兵舎にいたが、今では軍人もいない。偽アテネにいた偽ユリアヌス[フリードリヒ二世]のことを学んでいた。ドイツの大君主が百科事典的な格言を短いフランス語の詩句へとしたためた机をサンスーシにて見せられた。木製のサルとオウムで飾り立てたヴォルテールの部屋、地方を荒廃させた氏がたやすく敬った風車、カエサルという名の雄馬と、ディアナ、アムレット[かりそめの恋]、ビシュ[雌鹿;愛しき人]、スュペルブ[この上ない人]、パクスという雌のグレイハウンドの、墓。王たる不信心者は犬のための霊廟を建てたことで墓穴の宗教でさえも好んで冒涜した。氏は人々への軽蔑よりかは空無を誇示するため彼らの近くへと埋葬場所を定めた。

 新たな、すでに零落している、宮殿へと連れて行かれた。ポツダムの古城では煙草の染み、裂けて汚れた肘掛け椅子、そしてついには、背教者たる君主の不潔な痕跡すべてを重んじる。これらの場所は同時に、冷笑家の猥言、無神論者の厚かましさ、専制君主の圧政、兵士の栄光を不滅にする。

 あるものが唯一わたしの注意を引いた。フリードリヒの息絶えた分秒から動かない振り子時計の針である。わたしはこのイメージの不動により欺かれた。彼らの逃走は時間によって中断されはしない。人が時を停めるのではなく、時が人を停めるのである。そのうえ、世の中で演じてきた役割は僅かばかりしか意味をなさない。われわれの教義の明暗、豊かさや貧窮、喜びや苦しみは、日々の短長を何一つ変えはしない。金製もしくは木製の文字盤のうえで針が回ろうが、ある程度幅広い文字盤が指輪の石座を埋めようがバシリカの薔薇窓を埋めようが、時間は同じ長さしか続かない。

 プロテスタント教会の地下聖堂にて司祭職を捨てた離教者の講壇の真下に戴冠した屁理屈屋の棺をみた。その棺はブロンズで出来ている。叩けば鳴り響く。この青銅製の寝台のなかで眠る憲兵は自らの名声の騒ぎによっても眠りから引き離されはしないだろう。軍神と向かい合った戦場のうえでトランペットが呼び求めるとき、その音だけが彼を目覚めさせる。

 受けた印象を変える必要があり、大理石宮殿訪問に慰めをみたほどであった。そこを建造した王からはかつて、貧しき将校たるわたしが彼の軍隊を横切ったとき、幾つかの褒詞を受けた。少なくとも、その王とは人間のありふれた弱さを共有していた。人々のように俗っぽく、王は快楽のなかへと逃げ込んだ。二つの骸骨は、往時そのひとつがフリードリヒ大王で他方がフリードリヒ・ヴィルヘルムであったなかで、彼らの間に存在した違いを今日になって心配するのであろうか? サンスーシと大理石宮殿はどちらとも主人なしの廃墟となっている。

 結局、現代の出来事の深刻さは過去の出来事を卑小にしてしまい、マレンゴ、アウステルリッツ、イエナ、モスクワの戦いの後だとロスバッハ、ロイテン、リーグニッツ、トルガウ等々はもはや小競り合いでしかないが、フリードリヒはセントヘレナで鎖に繋がれた巨人との比較で他の人物ほど耐えられなくはない。プロイセン王とヴォルテールは生き続ける奇妙な組み合わせの二名である。後者は哲学で社会を破壊し、その哲学は前者が王国を築くのに仕えた。

 ベルリンの夜は長い。わたしはディーノ公爵夫人所有の邸宅に住んでいる。日が暮れた途端、秘書たちはわたしを見捨てる。大公とニコライ大公妃の婚姻のための祝宴が庭にて催されない場合は家で休む。陰鬱な表情をしたままストーブの近くにひとりで閉じこもり、ブランデンブルク門の歩哨の叫びと時刻を口笛で伝える男の雪の上の足音だけを聞く。何をして時を過ごそう? 書物は? ほとんど持ち合わせがない。もし回想録を続けるとしたら?

 コンブールからレンヌへの途上にわたしを置き去りにしたままであった。その後者の町でわたしはひとりの親類宅に押しかけた。まったく愉快に彼はパリへと向かう知人女性が車の席をひとつ余らせていると告げ、わたしの乗車を掛け合うと自信ありげになった。わたしは、親類の礼節を恨めしく思いながら、承諾した。取引を成立させ、すぐさま、服飾を商う、機敏で軽快な、わたしを見て笑い始めた、旅の伴侶へと紹介した。正子に馬がやってきて、われわれは旅立った。

 ここでわたしは真夜中女性とただ二人っきりで軽装馬車のなかにいる。人生で顔を赤らめずに女性を見つめたことのなかったわたしは一体どのようにして夢の高みからこの恐ろしい真実へと落ちていったのだろう? 自分がどこにいるのか分からなかった。ローズ夫人のドレスに触れてしまう恐れから車の角に身をくっつけた。彼女がわたしに話しかけるとき、返答できずに口ごもった。わたしが不能であったため、彼女は御者への支払いから何まですべて責任を負った。彼女自身遺憾ながら困惑させられたその愚か者を夜明けには新たな仰天とともに見た。

 風景の様相が変わり始め、もはやブルターニュ農民の衣服や訛りを認識できなくなるとすぐにわたしはローズ夫人からの軽蔑を増大させた深い衰弱へと陥った。自らが生じさせた感情を悟り、世界においてのこの初めての試みから、時が完全には消すことのできない印象を受けた。生まれは野生児ながら恥知らずではなかった。齢にかなった謙虚さを有しながら、それに困惑させられたりはしなかった。自分の良い側面によって滑稽になっていると見抜いたときには、野蛮さは克服し難い臆病さへと変わった。もう一言も発せなかった。なにか隠すべきものを有していて、その何かは徳だと感じた。純真さを安らかに抱えるため自らを隠す決心をした。

 われわれはパリへと進んでいた。サン=シールから下る途中、道の大きさと植栽の規則性に驚かされた。すぐにヴェルサイユへと到着した。オランジュリーと大理石の階段がわたしを感嘆させた。アメリカの戦いでの成功がルイ十四世の城へと勝利を持ち帰っていた。そこで女王は若さと美しさの華やぎのなか君臨していた。失脚にとても近い玉座はそれ以上堅牢であったことがないように思われた。そしてわたし、不分明な通りすがりは、この盛大さを生き延びなければならず、そのとき抜け出てきた土地ほど人気のないトリアノンの森をみるため留まらなければならなかった。

 ついにわれわれはパリへと入った。どの顔にも嘲弄した様子が見受けられた。ペリゴールの紳士のように[『プルソニャック氏』]、わたしは人々がわたしをからかうために見ているのだと思った。ローズ夫人はメール通りのヨーロッパホテルまで案内してもらい、間抜けの排除を急いだ。わたしが車から降りるとすぐに夫人はドアマンに伝えた: 《この方にひと部屋お願いします—— 心より》とわたしに短くお辞儀をさせながら彼女は付け加えた。今もローズ夫人との再会は叶っていない。

 ひとりの女性が、手に札付きの鍵を持ちながら、暗く急な階段を登ってわたしの前へと来た。サボア人の男がわたしの小さな荷物を運びながらついてきた。三階に着き、女中が部屋を開けた。サボア人は荷物を肘掛け椅子の腕に跨がらせた。女中はわたしに言った: 《何かご所望でしょうか?》—— わたしは答えた: 《いいえ》。三度汽笛が鳴らされた。女中が声を上げた: 《行かなくては!》 突然外へと出て扉を閉めてサボア人とともに階段から転落しに行った。ひとりで閉じ込められている自分の姿をみたとき、ブルターニュへの帰路につきかけたほど奇妙な仕方でわたしの心は締め付けられた。パリに関して聞いた話のすべてが精神へと戻ってきた。百の方法で辱めを受けた。横になりたかっただろうが、寝台は準備されていなかった。腹を空かしたものの、どのように昼食を取ればよいのかわからなかった。作法を誤るのを恐れた。ホテルの人間を呼ぶべきか? 降りてゆくべきか? 誰に伝えるのか? わたしは敢えて窓から顔を出した。生きているあいだ三階の囚人のことなど夢にも思わない人々が往来する、井戸のように深い、小さな内庭だけをひと目見た。室内を彩る壁紙の人物たちを凝視する羽目に陥りながら、そこで寝ることが想定されている汚れたアルコーブの前に再び座ることになった。遠いひとの声が聞こえ、増大し、近づく。扉が開く。入ってきたのは兄と、母の姉つまりは相当不味い結婚をした人物の息子に当たる従兄弟であった。ローズ夫人は他方で間抜けを哀れに思い、レンヌで得た住所を頼りにわたしがパリに着いたことを兄へと伝えていた。兄はわたしを抱きしめた。従兄弟のモローは太った大きい人物であり、全身が煙草塗れで、大食漢、大変良く喋り、常に駆けずり回っていて、息切れし、息苦しくなっている、口が半開きの、舌を半分出した、全世界に通じている、賭博場や待合室、応接間に住む男だった。《行きましょう、騎士殿——彼が声を上げた——ここがパリです。シャストネー夫人の自宅へと案内しましょうか?》。わたしが初めて名前を聞くその人物は一体誰であったのか? この提案は従兄弟モローに対するわたしの抵抗を生んだ。《おそらく騎士殿は休息が必要だ——と兄が言った——ファルシー夫人に会いに行き、そのあと、昼食と午睡のために戻ってきましょう。》

 喜びの感情が心に入り込んだ。無関心な世界のただなかで家族の思い出は慰めとなった。われわれは外へと出た。従兄弟モローはわたしの不味い部屋にかんし喚き立て、主人にせめて階を一つ下げるよう厳命した。兄の車に乗り込み、われわれはファルシー夫人の住む修道院へと赴いた。

 ジュリーは医師の診察を受けるため、ある程度の期間パリに滞在していた。彼女の素敵な容姿、上品さ、才気は、すぐに彼女を求められる存在にした。彼女が真の詩才を持って生まれてきたことはすでに言及してある。自らの世紀のこの上なく喜ばしい女性のひとりであったあと、彼女は聖女のようになった。カロン神父は彼女の人生を記した。至るところへ魂を求めに行くあの使徒たちは彼女たちに対し、教会の神父が創造主のものだとする愛を感じる。《魂が天に達するとき》と初期キリスト教徒の心の素朴さとギリシャの天才の無邪気さを持ってその神父は言う、《神は彼女を膝の上に乗せ、彼女を自身の娘と呼ぶ。》

 ルシルは胸を刺すような哀歌を残した: 『もういない姉へ』。カロン神父のジュリーへの憧れはルシルの言葉を解き明かし、正当化する。敬虔な司祭の話はわたしが『キリスト教精髄』の序文で真実を語ったことをも示しているが、回想録の幾つかの場面においても証拠としての役割を果たす。

 無垢なルシルは悔悟の手へと身を委ねた。彼女は苦行で得た宝を兄たちの贖罪のため捧げた。そして彼女の守護聖人たる高名なアフリカ女性[コルシカのジューリア]を範模として彼女自身も殉教者となった。

 『正しき人々の生』の著者であるカロン神父は亡命したパオラのフランチェコスとでも言うべき、悲嘆する人々によって明かされたその名声がボナパルトの名声さえも貫いた、わたしの同胞[亡命仲間]の聖職者である。追放された貧しき助任司祭の声は社会を一変させた革命の反響によって押し殺されなどしなかった。彼はわたしの姉の徳を記すため、わざわざ余所の土地から戻ってきたようだった。廃墟のなかを訪ね回り、彼は一人の犠牲者と忘れ去られた一つの墓を見つけた。

 新たな聖人伝がジュリーの宗教的な苦行を描くとき、ひとはラ・ヴァリエール嬢の信仰告白を説くボシュエの声を聞いたと考える:

 《とても柔らかく、とても愛しい、とても大事にされた、あの体に彼女は触れてしまうのだろうか? この繊細な見て呉れを人は憐れんだりしないのだろうか? とんでもない! この上なく危険な誘惑者と対するように、魂がはじめに非難するのは体である。魂は限度を定める。どの部分においてもきつく締め付けられた魂はもはや天の側以外で呼吸することができない。》

 ジュリーの神聖な歴史家の手によって描写された最後の数行のなかにわたしの名前を見るたび、とある困惑を覚えずにはいられない。それほど高い完全性の前で、わたしがわたしの弱さと一体どんな関係をもつというのだろう? ロンドンへの亡命のあいだ受け取った姉の知らせがわたしに約束させた全てを守れただろうか? 一冊の本が神を満足させるのだろうか? わたしが神に示すべきはわたしの人生ではないのか? または、この生は『キリスト教精髄』に適ったものなのか? もしわたしの情熱が信仰に影を落とすのであれば、宗教の大まかな眩さのイメージを描写することに何の意味があるというのか! 終いまで突き詰めて来なかった。わたしは苦行衣を着てこなかった。臨終の聖体拝領のあのチュニックがわたしの汗を飲み干していただろう。だが、疲れた旅人のわたしは道の端に座った。憔悴していようがいまいが、起き上がらなくては、姉の到着したところに辿りつかなくてはならない。

 ジュリーの栄光は欠くところがない。カロン神父が彼女の人生を記した。ルシルは彼女の死を嘆き悲しんだ。

 ジュリーとパリで再会したとき、彼女は社交趣味の華々しさのなかにいた。彼女は聖クレメンスが初期の女性キリスト教信者に禁じたあの香り付きの織物を纏い、あの花で身を覆い、あの首飾りをつけて表れた。聖バシルは孤独のなか自然の沈黙を味わうため他人にとっての朝が意味するところのものを真夜中に望む。その真夜中はジュリーの見事な快音によって強調された詩句が主たる魅力となっていた祝宴へと彼女の赴く時間であった。

 ジュリーはルシルよりも無限に可愛かった。愛撫するような青い目つき、そして型押しした、もしくは大きく波打たせた茶色い髪をしていた。彼女の手と腕、白さと形状のモデルであるそれらは、優雅な所作によって、素敵である体つきへまた更に素敵な何かを加えていた。彼女は輝かしく、活気があって、気取りなしによく笑い、笑いながら真珠の歯を見せていた。ルイ十四世の時代の女性たちを描いた沢山の肖像画、とりわけモルトマールの三姉妹のそれが、ジュリーに似ている。だが、彼女はモンテスパン夫人よりも上品だった。

 姉妹だけが有する優しさでジュリーはわたしを迎え入れた。彼女のリボン、薔薇の花束、レース、彼女の腕に抱きしめられながら守られていると感じた。女性の繊細さと献身は何事によっても置き換えられない。ひとは兄や友人から忘れ去られる。ひとは朋輩から理解されない。ひとは決して母や姉、もしくは妻からそのような仕打ちを受けない。ハロルドがヘイスティングズの戦いで殺されたとき、誰一人として死んだ群衆のなかの彼を指し示すことができなかった。若い娘、ハロルドの最愛の女性に、頼るしかなかった。彼女はやってきた、そして不幸な君主は白鳥の首のエディスによって発見された: 《Editha swaneshales, quod sonat collum cycni[エディタ・スワンネシャルス、「白鳥の首」のように聞こえる]》

 兄はわたしをホテルに連れ帰った。わたしの昼食を注文して、去っていった。ひとりで食事し、悲しく横たわった。パリでの初めての夜を、ヒースを惜しみながら、将来の不分明さを前にして震えながら、過ごした。

 翌朝の八時、太った従兄弟が到着した。彼にとってそれはすでに五六番目の用事であった。《ええっと! 騎士殿、朝食を食べにいきましょう。ポムロールと昼食を取り、晩にはシャストネー夫人宅へとお連れします》。わたしにはそれが運命のように思え、受け入れた。すべてが従兄弟の望んだように生じた。朝食後、パリを見せに行くのだと主張し、若い人物が晒されている危険について語りながらパレ・ロワイヤル周りの最も汚れた通りでわたしを引っ張り回した。われわれはレストランでの昼食の約束を時間どおりに守った。わたしには饗されたすべてが不出来にみえた。会話と会食者が別の世界をわたしに見せた。それは宮廷問題や経済計画であったり、アカデミーの審議のことや、現代の女性たちと駆け引きのこと、新しい戯曲、そして俳優、女優、作家の成功のことであった。

 多くのブルターニュ人が会食者として名を連ね、そのなかにはゲ騎士とポムロールがいた。後者はボナパルトの宣伝を幾つか書いた口達者な人物で、わたしは後に出版局の長となる彼と再会する定めであった。

 帝国のもとポムロールは高貴さへの憎悪により名声の類を味わった。とある紳士が侍従になったとき、ポムロールは喜びに満ちて声を上げた: 《また別の尿瓶が貴族の頭のうえに!》。それでもポムロール[Pommereul]は正当な理由でもって自らが紳士であると主張していた。セヴィニエ夫人の手紙のなかのポムルー家の子孫として、彼はPommereuxと署名していた。

 わたしの兄は、昼食後、わたしを見世物に連れて行きたがったが、従兄弟がシャストネー夫人のためわたしを要求し、わたしは彼と運命の場所へと向かった。

 わたしはひとりの美しい女性、はじめの若さにはもうないけれどもまだ愛着を抱かせる人物、を見た。彼女はわたしを手厚く迎え入れ、落ち着かせようと試みて、わたしの州と連隊について尋ねた。わたしはぎこちなく、そのうえ困惑していた。滞在を早めに切り上げるよう従兄弟に合図した。だが彼はわたしを見ることなしにわたしの才能について全く尽きない話をし、母の子宮のなかでも詩作していただろうと請け負い、シャストネー夫人のお祝いにわたしを招待した。彼女はこの辛い状況を変え、やむを得ない外出の許しをわたしに乞い、翌朝再び訪ね来るよう、従うことを無意識に約束させたほどの甘い声音で、わたしを誘った。

 次の日はひとりで彼女の自宅へと戻った。優雅に設えられた部屋で横たわる彼女を見つけた。彼女は少し気分が優れないと言い、遅くに起床する悪い癖があると語った。わたしは母でもなく姉でもない女性の寝台の端にいる自分を初めて認めた。彼女は前日にわたしの臆病さを見抜いており、わたしがある種の無頓着さで敢えて自分を表現するに至るまでそれを打ち破った。彼女に伝えたことは忘れてしまった。だがまだ彼女の驚きの雰囲気をみるようである。半分だけ裸の腕と世界で最も美しい手をわたしに差し出し、こう笑いながら言った: 《わたしたちがあなたを手懐けてあげます》。その美しい手すらわたしは口づけしなかった。すっかり動揺しながら立ち去った。わたしは翌日カンブレーへと旅立った。このシャストネーの婦人は一体誰だったのだろう? 何も分からない。魅力的な影のようにわたしの人生を過ぎていった。

 大型荷物の配達人が駐屯地までわたしを送り届けた。義兄のひとりシャトーブール子爵(彼はケブリアック伯爵の未亡人になっていた姉ベニーニュと結婚した)が連隊の将校たちに向けた推薦状をわたしに授けていた。品のよい一座の人物ゲナン騎士が、才能でもって卓越していた将校たち、アシャール氏、デ・マイ氏、ラ・マルティニエール氏の食事するテーブルへの出席をわたしに認めた。モルトマール侯爵は連隊長だった。ダンドルゼル伯爵は中隊長だった。わたしは特に後者の監督の元に置かれることとなった。あとになって両者とは再会した。一方は貴族院の同僚となり、他方はわたしが返礼として喜んで供した幾つかの饗しのため訪ねにきた。生の様々な時期を通じて親睦を深めた人々と遭遇すること、彼らの存在とわれわれの存在に引き起こされた変化を勘案すること、これらには悲しい喜びがある。背後にのこした標柱のように、彼らはわれわれが過去の砂漠のなかで辿ってきた道を付けてくれる。

 市民の格好をして連隊に到着し、二十四時間後、兵隊の服を着た。前々から着こなしてきたように見えた。わたしの軍服は青と白色で、かつての誓願のジャケットのようだった。同じ色のもとわたしは若き人物や子どもとして歩んだ。少尉らが新入りに課す仕来りの試練は何ひとつ受けなかった。わたしを前にして何故誰もそうした軍事的な幼稚性に身を任せてしまわなかったかは分からない。部隊に入ってまだ十五日が経たぬうちに、「古株」のように扱われていた。武器の取り扱いや理論を容易に学んだ。教官たちの称賛とともに伍長と軍曹の階級は通過した。わたしの部屋は老いた隊長たちが、若い少尉たち同様、溜まり場とした。前者はわたしを彼らに賛成させ、後者はわたしに愛の話を打ち明けた。

 ラ・マルティニエールは熱愛していたある美しいカンブレー女性の扉のまえを一緒に通るためわたしを迎えに来た。これが一日に五六度生じた。彼はとても醜く、天然痘によりあばた顔をしていた。わたしが時々代金を支払うことになった大きなグラスのスグリのジュースを飲みながら情熱を語っていた。

 身支度への狂気の熱意がなければ、すべてが素晴らしかった。当時軍が好んでいたのはプロイセンの服装における厳格さであった。小さい帽子、頭に留めた小さい巻き毛、硬く結ばれた後ろ髪、厳密にホックを掛けた服。それがわたしを大変不快にした。朝にはそれらの足枷に屈したものの、夕方首領に見られぬことを期待していたときはより大きな帽子でめかし込んだ。理髪師がわたしの髪の巻き毛を降ろし、後ろ髪を解いていた。わたしはボタンを外し、服の下襟を重ねた。この柔らかいネグリジェに包まれて、つれないフランドル人の窓の下、ラ・マルティニエールのもとへと伺候しに行った。ある日ダンドルゼル氏と出くわしたときがこれである: 《それはなんだね?——恐ろしい中隊長が言った——三日間拘束する》。わたしは少し辱めを受けた。だが、何事かにとっては不幸もまた良いという諺の正しさを認識した。彼は同胞の愛からわたしを解放した。

 フェヌロンの墓の近くで『テレマックの冒険』を再読した。牛や高位聖職者の博愛的な逸話にあまり嵌まる感じではなかった。

 務めだしたころのことがわたしの思い出を愉快にしている。百日天下のあと、王とカンブレーを過りながら、わたしは自分が住んだ家や通った喫茶店を探していた。見つけることはできなかった。男たちや記念碑、そうしたすべてが消え去っていた。

 わたしがカンブレーで登場したまさにその年、われわれはフリードリヒ二世の訃報に接した。わたしはこの偉大なる王の甥に遣わされた大使であり、ベルリンにて回想録のこの箇所を記述している。大衆にとっては重要なこの知らせにつづいて、わたしには痛ましい別の知らせが舞い込んだ。ルシルがわたしに伝えたのは、わたしの幼少期の喜びのひとつであったランジェヴィーニュの祭りを終えた翌々日に、父の命が卒中の発作によって奪われたということだった。

 わたしの案内の役割を果している公署の書類のなかに、両親の死亡証明書が見つかる。その世紀の死を特別な仕方で印象づけた証明書を歴史の一頁としてここに書き留めておく。

 《1786年度コンブール小教区死亡者名簿からの抄録、以下は八枚目裏の記述より:

 《騎士、コンブール伯爵、ゴグル、ル・プレシ=レピーヌ、ブレ、ドルのマレストロワ、その他の領主、高貴で有力なコンブール伯爵夫人アポリンヌ=ジャンヌ=スザンヌ・ド・ベデ・ド・ラ・ブエタルデ婦人の夫、齢約六十九、9月6日夕方八時頃コンブール城で亡くなった高貴で有力なルネ・ド・シャトーブリアン殿の体はわれらがコンブール教会の棺に入れられ、紳士の方々と司法官の方々、そのほか下記に署名する町の名士参列のもと、8日前述した領地の地下聖堂にて埋葬された。名簿への署名: デュ・プティボワ伯爵、ド・モンルエ、ド・シャトーダシ、ドローネー、モロー、ヌリー・ド・モニ弁護士; エルメ検事; プティ弁護士兼財務代理人; ロビウ、ポルタル、ル・ドワラン、ド・トルヴレック、ダンジェの首席司祭; セヴァン主任司祭》

 コンブール市長ロダン氏の手による1812年発行の校合写本のなかでは、肩書を表す十九単語——高貴で有力な殿など——に横線が引かれている。

 《共和国6年イル=エ=ヴィレーヌ県第一区サン=セルヴァン町死亡者名簿からの抄録、以下は三十五枚目表の記述より:

 《フランス共和国6年プレリアル12日[1798年5月31日]、わたしジャック・ブルダス——昨フロレアル4日[1798年4月23日]官吏に選出されたサン=セルヴァン・コミューンの町官吏——の前に、庭師ジャン・バレと日雇い労働者ジョゼフ・ブーランが出頭し、ルネ=オーギュスト・ド・シャトーブリアンの未亡人アポリンヌ=ジャンヌ=スザンヌ・ド・ベデが当コミューン内のラ・バルに位置する市民グイオン婦人の住居にて当日午後一時死去したと申し出た。わたしが真実を確かめたその申告に基づき、ジャン・バレひとりがわたしとともに署名し、ジョゼフ・ブーランがその取り調べに対し要領を得ないと宣言している当証書を作成した。

 《役所にて当該日に。署名: ジャン・バレとブルダス》

 はじめの抄録には旧来の社会が残存している。シャトーブリアン氏が「高貴で有力な領主」等々。証言者は「紳士」と「町の名士」である。署名者たちのなかでは、冬のコンブール城に滞在していたモンルエ候爵、わたしが『キリスト教精髄』の著者だと認めるのに苦労したセヴァン主任司祭、最後の住まいに至るまでの父の信心深い客人たち、と出会う。だが父は屍衣に包まって長い眠りについてはいなかった。古いフランスがごみ捨て場に放り込まれたとき、父も外に追い出された。

 母の死亡登録抄本のなかでは、地面が対極のうえを回っている。新しい世界、新しい時代である。一年の復活祭算定や月の名前さえも変わっている。シャトーブリアン夫人はもはや「市民」グイオン婦人の住居で身罷る貧しい女性でしかない。庭師と署名の仕方が分からない日雇い労働者だけが母の死を証言している。親類や友人は、皆無。葬儀なし。唯一の介添えは、革命であった。

 シャトーブリアン氏のため涙した。父の死は父の意味するところを良く示してくれた。父の厳格さや弱さは思い出せなかった。コンブールの広間での夜の散策をまだ見るようだった。そうした家族の場面をかんがえ心柔らかになっていた。もしわたしに対する父の愛情が性格の厳しさによる余波を受けていたとしても、深いところではやはり愛情は生き生きとしたものだった。おぞましい傷によって獅子鼻となった残酷なモンリュック元帥は屍衣のかけらのしたに栄光の惨劇を隠蔽せざるを得なくなった、そして、その虐殺者は亡くしたばかりの息子へのかつての非情さのため自らを非難する。

 《可哀そうにこの子は——と彼は申されました——わたしの軽侮に満ちたこわい顔だけしか見ずにしまった。そして、父には自分を愛することも自分の価値を認めることもできないのだ、と思いこんだまま逝ってしまった。いったい誰に告げようとて、わたしは心のなかの彼に対する深い愛情を胸の中にたたみこんでいたのか。わたしの心の中を知って心から喜び心から感謝してくれたであろう者は、当の息子ではなかったろうか。わたしはこのつまらぬ外見を失うまいと、自分をおさえにおさえて来た。そのために彼と語り合う喜びも、そして彼の愛情も、もろともに失ってしまった。彼はきわめて冷やかな愛情だけしかわたしにくれることができなかった。彼はわたしからきびしさのほかには何も与えられず、ただただ暴君のような振舞だけしか見せられなかった。》[モンテーニュ随想録 第二巻 第八章 関根秀雄訳]

 わたしの「愛情はきわめて冷やか」に父に向けられてなどいなかったし、「暴君のような振舞」にもかかわらず、父がわたしをやさしく愛してくれたことに疑いなどない。父よりまえに摂理がわたしを呼んだなら、確信していることだが、父は悔やんだであろう。だがわたしと共に地上に留まっていたのなら、わたしの生から登った騒音に敏感になっただろうか? 文学の名声が彼の紳士性を損ねていただろう。息子の適性をただの退行としか看做さなかっただろう。ベルリンの大使職でさえ、剣ではなくペンにより獲得したそれは、月並みな充足感しか与えなかっただろう。一方でブルターニュの血が彼を政治の批判者、税の大反対者、宮廷の暴力的敵対者に導いた。父が読んでいたのは『ガゼット・ド・レイド』、『フランクフルト新聞』、『メルキュール・ド・フランス』、『両インド哲学史』といった父を喜ばせる大仰な表現が含まれるものだった。父はレーナル神父を「名人」と呼んでいた。外交面では反ムスリムであった。四万のロシア人悪童がイェニチェリを踏みつけ、コンスタンティノープルを占領すると断言した。トルコ人嫌いだが、それでも父はダンツィヒでの遭遇ゆえにロシア人悪童に恨みを抱いていた。

 わたしは文学的名声やその他の名声に対するシャトーブリアン氏の感情を分け持っているが、それは彼のものとは別の理由による。わたしは自らを唆るような歴史上の名声を知らずにいる。利益のため世界最大の栄光を自分の足元から拾い集めようと身を屈めなくてはならぬのなら、わたしはそんな疲れるような労働に打ち込みはしない。もし自分の泥をこねていたなら、女性たちへの情熱から女を創り出していたかもしれない。それが男だったとしても、はじめに美を授けていただろう。つづけて、わたしの執拗な敵である物憂さに用心して、卓越しているが無名で自らの孤独のためだけに才能を行使する芸術家であれば十分都合がよくなっただろう。その軽量でもって量られその短身のオーヌ尺で測定され汎ゆるいんちきから解放された生では、本当の事柄は二つしかない。宗教とそれに伴う知性、愛とそれに伴う若さ、すなわち、未来と現在である。ほかは苦労するほどの価値もない。

 父とともにわたしの生の一幕目は終わりを告げた。父なる家は空となった。それを放擲や孤独を感じることができた存在として哀れんだ。それ以来、主人を欠き、資産を享受することになった。その自由がわたしを脅かした。それで何をするのだろう? 誰に譲るのか? わたしは自分の力を警戒した。わたしは自分を前にしてたじろいだ。

 わたしは休暇を得た。ピカルディ連隊の中佐に任命されたダンドルゼル氏はカンブレーを去っていた。わたしは彼の伝令として仕えた。四分の一時間ほども留まりたくはなかったパリを横切った。われわれの風土に追放されたナポリ人がポルティチの海岸やソレントの平原を再見するときよりも多くの喜びをもってふたたびわがブルターニュの荒れ地を眺めた。家族はコンブールに集っていた。分与は定められていた。それを終えると、親の巣から飛び去る鳥たちのようにわれわれは離散した。パリから来た兄はまたそこに帰った。母はサン=マロは居を定めた。ルシルはジュリーについていった。わたしはマリニーやシャトーブール、ファルシー夫人たちの家でひとときを過ごした。フージェールから三リューのところにある年長の姉の城マリニーは森や岩、草地のなかの二つの池の狭間で心地よい具合に位置していた。わたしはそこで数カ月間落ち着いて滞在した。パリからの一通の手紙が安らぎを乱した。

 軍務に服したときもロザンボ嬢と婚約したときも、まだ兄はガウンを脱いでいなかった。そのため四輪馬車に乗ることはできなかった。みずからの栄転への道を開くため兄の切迫した野望がわたしを宮廷の名誉[honneurs de la cour;謁見の名誉]に浴させるアイディアを思い浮かばせた。高貴であることの証明はラルジャンティエール参事会に受け入れられた際ルシルのために為されていた。したがって手筈はすべて整っていた。デュラス元帥がわたしの後援者だった。兄はわたしが富の途上に入ったと告げた。そしてすでに騎兵隊長の身分、名誉上の儀礼的な身分を得たと。そしてそこを通じてわたしが巨大な利益に浴するだろうマルタ騎士団への加入は容易いものだと。

 この手紙が稲妻の一撃のようにわたしを打った。パリに戻り、宮廷に赴く——そして三四人の見知らぬ人物たちと客間で出会ったとき、ほとんど具合が悪かった。わたしに野望を理解させた、忘れられながら生きることだけを夢見ていたわたしに!

 わたしの最初の反応は、名を保つかどうかは年長である兄次第だと答えたことだった。そして、わたしブルターニュ出身の不分明な弟に関して言えば、開戦の可能性があるから、軍務からは退かないと。だが、もし王が自身の軍隊に兵を望むのであれば、宮廷に現れる貧しい紳士は望まないと。

 小説的なこの返事を急いでマリニー夫人に読み、彼女は声高に不平を述べた。ファルシー夫人が呼ばれ、彼女はわたしをからかった。ルシルは手助けしたかっただろうが、姉たちと争ってしまったりなどしなかった。手紙を取り上げられたわたしは自分のこととなるとつねに弱くなり、兄には出発する旨を知らせた。

 事実わたしは旅立った。ヨーロッパにおける第一級の宮殿に赴くため、最も輝かしいやり方で社会に出るため、わたしは出立し、ガレー船に引きずり込まれようとしている人物か死の宣告を受けようとしている人物の雰囲気でいた。

 初めに辿った道を通ってパリへと入った。メール通りの同じホテルに宿泊しに行った。そこしか知らなかった。以前の部屋のそばを割り与えられたが、通りに面している少しだけ大きな住まいであった。

 わたしの作法に困惑していたのか、臆病さに哀れみを感じたのか、兄はわたしを全く世の中へと連れ出さなかったし、誰とも知り合わせなかった。兄はフォセ=モンマルトル通りに住んでいた。わたしは毎日彼の自宅へと三時の昼食を食べに行った。それからわれわれは別れて、次の日まで再会しないのだった。太った従兄弟モローはもうパリにいなかった。彼女はどうなったのか守衛に尋ねてしまうことなくシャストネー夫人の邸宅のまえを二三回横切った。

 秋は始まっていた。わたしは六時に起床していた。乗馬学校に通った。それから朝食をとった。あの頃のわたしは幸福ながらギリシャ語に熱中していた。『オデュッセイア』と『キュロスの教育』を歴史研究の作業と混ぜ合わせながら二時まで訳していた。二時になると正装して、兄の家へと向かった。兄はわたしがしていたことや見たものを尋ねた。わたしは答えた: 《何も》。兄は肩をすくめて、わたしに背を向けた。

 ある日、外の騒ぎを聞く。兄は窓に走り寄り、わたしを呼ぶ。部屋の奥の肘掛け椅子のうえで体を伸ばしていたわたしは椅子から離れたくはなかった。今は亡き兄はわたしが自分自身や家族に益なく人知れずに死ぬだろうと予言した。

 四時になると自室に戻った。窓のまえに座っていた。この時間になると齢十五六の若い女性二人が通りの逆側、向かいに建てられた邸宅の窓までデッサンをしにやってきた。こちらもあちらに対してそうであったように彼女たちはわたしの規則性に気づいていた。時折彼女たちは隣人をみるため顔を上げた。わたしはこの関心の印に限りない感謝の気持ちを抱いていた。彼女たちがパリでの唯一の付き合いだった。

 夜が迫ると芝居を見に行った。群衆の砂漠はわたしを喜ばせたが、扉のところで券を買って人々と入り交じるのにいつも少し苦労した。サン=マロの劇場で抱いたアイディアを修正することになった。サン=ユベルティがアルミーダの役で出演しているのを見た。わたしの創造した女魔術師には何かが欠けていたと感じた。歌劇場やフランセーズのそれに閉じ込められていないときは、夜の十時十一時あたりまで通りから通りへと散策し河岸沿いを歩いた。今日でもまだルイ十五世広場からボンゾムの柵に掛けての街灯の連なりを、謁見の際ヴェルサイユへと赴くためその道をたどりながら感じていた不安を思い出さずに見ることができない。

 住まいに戻り、何も語ることのない火へと頭を傾げながら夜のひとときを過ごした。ペルシア人のように炎をアネモネや炭火をザクロの実に似せて思い描くほど豊かな想像は有していなかった。往来し、互いに行き交う車の音を聞いた。それらの遠い走行音が故郷ブルターニュの砂浜に迫る海やコンブールの森に吹く風のざわめきを真似ていた。そうした孤独の騒ぎを想起させる世界の騒音がわたしの後悔を呼び覚ました。自らの古き悪を連想したか、もしくは、想像がチャリオットで運び去られる人々の物語を生み出した。光り輝くサロン、舞踏会、愛、征服を垣間見た。だが、すぐにわれに返り、郊外のホテルのなかで置き去りにされた、窓から世界をみて実家の響きを聞いている自分を発見するのだった。

 ルソーは人生の疑わしい快楽の告白に、人間の教育同様、真摯さを負うと信じている。ベニスのdonne pericolanti[危険な女たち]との罪を厳しく問い詰められ説明を求められることさえ仮定している。もしわたしがパリの高級娼婦相手に放蕩していたなら、後世を指導しなければならないとは思いもしなかっただろう。だが売春婦の誘惑に身を委ねることに関しては、一方で謙虚すぎる部分もあり、他方でとても熱狂的であった。ひとの中二階に這い上がるため通行人を襲う不幸者の群れとすれ違ったとき、旅行者を馬車へと乗り込ませるサン=クルーの御者のように、わたしは嫌悪感と恐怖に捕らわれた。冒険の喜びは過ぎ去りし日々においてのみ相応しい。

 十四、十五、十六、十七世紀においては不完全な文明、不合理な信仰、余所者の半ば野蛮な慣習が小説の全ての箇所を綯い交ぜていた。登場人物たちは力強く、想像は強大で、神秘的で隠れた存在だった。夜、墓地と修道院の高い壁のまわりで、町の寂れた城塞のしたで、市場の鎖と堀に沿って、閉ざされた地区のはずれで、狭く街灯のない通りのうえで、泥棒や殺人者が待ち伏せていた場所で、ある時は松明の光のもと、またある時は闇の濃密さのもと会合が執り行われていた場所で、とあるエロイーズによってなされた約束に従うのは命がけだった。混乱に身を委ねるには、真に愛する必要があった。一般の風俗に反するため、多大な犠牲を払わなくてはならなかった。それは偶発的な危機に立ち向かうことや法の剣をものともしないといったことだけではなく、規則的な習慣の支配、家族の権威、家庭における慣習の圧政、良心の抵抗、キリスト教徒の畏怖と義務が自らのうちで克服されなければならないということも意味していた。これら全ての足枷が情熱の精力を倍加していた。

 警察の監視のなか陋屋へ引きずり込もうとする飢えた女貧者に1788年のわたしは付いていかぬだろう。だが1606年であれば、バッソンピエールが見事に語った類の冒険を全うしただろう。

 《かれこれ五六ヶ月が経つ——元帥が言う——わたしがプティ=ポン橋を渡ったたび(当時はまだポン=ヌフ橋が建造されていなかったため)、ひとりの美しい女性——ふたりの天使が看板のリネン女工——がわたしに深々とお辞儀して出来るかぎり視線を送りつづけてから。そしてわたしも彼女の行為に用心していたがゆえに見返して、より慎重に手を振った。

 《それはフォンテーヌブローからパリに到着してプティ=ポン橋を渡っていたときだった、わたしがやって来るのを見かけるとすぐ店先に立ち、過ぎゆこうとするこちらに対し彼女がこう言ったのは——旦那さま、何なりと——。わたしは会釈を返し、ときおり振り返りながら、出来るかぎり長くこちらの方を目で追いかける彼女をみた。》

 バッソンピエールは約束を取り付けた。《わたしが発見したのは——彼曰く——齢二十の、夜の髪型をした、体のうえにはとても薄い肌着と緑色の粗く小さいスカート、足に霜焼け、それにペニョワールだけのとても美しい女性であった。彼女は大変喜ばせてくれた。ふたたび会うことはできはしまいかと尋ねた。——またお会いになりたいのであれば、と彼女は答えた、ブール=ラベ通りに居を構えているひとりの叔母のところ、レ・アール近く、ウルス通りそばの、サン=マルタン通り側の三番目の扉になります。十時から正子、それから少し遅い時間までお待ちしております。扉は開けたままにしておきます。叔母の部屋の扉が反応しますから素早く通り抜けることになる小さな通路が入り口のところにあります、その先で二階へと通じる階段が見つかります。——わたしは十時にやってきて、彼女が示した扉を見つけた、明るい光はたしかに二階から漏れていたものの、それは三階も一階も同じだった。だが扉は閉ざされていた。到着を知らせるため扉を叩いた。しかしわたしが誰だか問い質す男の声を聞いた。わたしはそこからウルス通りへと引き返し、二度目の機会に戻り、扉が開いているのを見ると、二階まで入っていった、そして、その光が燃えている寝台の藁のものであること、裸体二つが寝室の机に伸びていることが分かった。それゆえ、大変驚いて立ち去ったが、帰り際にわたしが探していたものを尋ねるカラスたち(死の埋葬屋)に出くわした。そしてわたしは彼らを四散させるため手に剣を握り、先を行き、家に帰りながら、この予期せぬ光景に少し心動かされていた。》

 二百四十年前バッソンピエールによって住所付きでなされた探検に今度はわたしが赴いた。プティ=ポン橋を渡り、レ・アールを過ぎ、そしてサン=ドニ通りの右手をウルス通りまで辿った。ウルス通りへと繋がる左手の最初の通りがブール=ラベ通りである。時と火事によって燻られたような標識が好ましい期待を抱かせた。サン=マルタン通り側に「三番目の小さい扉」を見つけたが、それほど歴史家による案内は正確である。そこでは、残念ながら、通りに留まり続けていると初めに考えていた二世紀半は消え去っていた。住宅のファサードは現代的だった。一階、二階、三階からは何の明かりも漏れていなかった。最上階の窓には、屋根のした、キンレンカとスイートピーの花飾りが君臨していた。地上階では、理髪店が髪わざの多くをガラスの奥にぶら下げ提供していた。

 全く落胆しながら、そのエポニーヌの博物館に入っていった。ローマ人の征服後、つねにガリア人女性たちは金髪の三つ編みを少ない飾りの頭に売りつけていた。ブルターニュの同胞たちは未だフェアの特定の日になると髪を剃り、頭部の天然ベールをインド製ハンカチと交換する。鉄櫛でかつらを梳かしている美容師に話しかけた: 《ご主人、プティ=ポン橋そばに住んでいた「ふたりの天使」が看板の若いリネン女工の髪はお買いになりませんか?》。店主は尻込みしたまま有無も言えなかった。幾千もの詫びとともにわたしは髪束の迷宮を抜けて失礼した。

 つづけて扉から扉へと彷徨った。二十歳のリネン女工が「深々とお辞儀」などしていなかった。「夜の髪型をした、体のうえにはとても薄い肌着と緑色の粗く小さいスカート、足に霜焼け、それにペニョワールだけの」情熱的で献身的で率直な若い女性などどこにもいなかった。歯を墓に差し向ける準備の整っている不機嫌な老女が松葉杖でわたしを打擲しようとした。もしかすればあれはランデブーの叔母だったかもしれない。

 このバッソンピエールの話はなんと美しいのだろう! 彼がそれほどまで決然と愛された理由のひとつを理解する必要がある。この時代、フランス人は二つの明確な階級に別れ、他方が支配し、もう一方は半ば仕える側であった。リネン女工がバッソンピエールを腕のなかへと押し込んだのは、半神が女奴隷の胸へと下るようであった。これが彼女に栄光の幻想を生んでおり、フランス人女性は、あらゆる女性のなかでも珍しく、この幻想に酔いしれる能力を有する。

 しかし誰がわれわれに破局の知られざる原因を解き明かすのであろう? それはほかの肉体とともに体を机の上に横たえる、「ふたりの天使」の、やさしい尻軽女工であったのだろうか? ほかの肉体とは何であったのか? 旦那であったのか、男であったのか、バッソンピエールがその声を聞いたのは? ペスト(パリではペストがみられたため)や嫉妬であったのだろうか、愛の前にブール=ラベ通りを急いだのは? そのような題材にたいして想像は気ままに作用可能である。大衆合唱、到着する墓掘り人、カラス、バッソンピエールの剣を詩人の発明と混ぜ合わせる、すると冒険から素晴らしいメロドラマが生じる。

 パリにおけるわたしの若さの貞潔と慎みに感嘆しもするだろう。この首都においては、みなが意志することを行ったテレームの僧院でのように、あらゆる気まぐれに耽ようとわたしの自由であった。しかしながらわたしは自らの独立を悪用しはしなかった。モンモランシー嬢を争ったベアルヌ人[アンリ四世]の恋敵であり、ベルヌイユ侯爵夫人の妹である、アンリ四世にたいして口さがなかったアントラーグ嬢の愛人たるフランスの元帥にかつて恋い焦がれた齢二百十六の高級娼婦としかかかわりは持たなかった。わたしが謁見しようとしていたルイ十六世はわたしが彼の家族と有していた秘密の関係について気づいてはいなかった。

 運命の日が訪れた。ヴェルサイユに向けて生きた心地がしないまま出立しなくてはならなかった。兄は謁見の前日にわたしをヴェルサイユへと連れていき、上流の作法ですら町民のあるところの反映が見られたほど平凡な精神を有しながら粋な人物であったデュラス元帥の家に案内した。この良き元帥は、しかしながら、恐ろしい不安を引き起こした。

 翌朝、城へと単独で赴いた。旧王宮の朽廃後も、ヴェルサイユのポンプを見ないうちは何も見ていないに等しい。ルイ十四世はまだそこに存在していた。

 衛兵の間を横切るだけでよかったときまでは順調だった。軍事機器はつねにわたしを喜ばせ、重荷になることなど決してなかった。だが牛眼の間に入って宮廷人の只中にいる自分を認めたとき、その時に、わたしの悲嘆が始まった。彼らがわたしを見ていた。わたしの素性を尋ねる声を聞いた。当時の謁見がそうであった権威に通暁するには王権のかつての威信を思い出す必要がある。不可思議な命運が「新参者」には結びついていた。大領主の極限的な礼儀正しさ、真似できぬ作法とともに構成された保護的で軽蔑しもする雰囲気から彼は免れていた。この新参者が主人のお気に入りにならないとは誰が言えるだろう? 彼のなかに眠るいつか賜るかもしれない召使の身分を人々は敬わった。今日、われわれは以前にも増して熱心に、そして不思議なことに、幻想もなしに、宮殿へと急ぐ。真実で自らを養うことになった宮廷人は全く餓死しかけている。

 国王のお目覚めが告げられると、謁見しない者たちは下がった。わたしは虚栄の動きを感じた。留まることに誇りはなかったが、辞去しても辱めを受けただろう。王の寝室が開いた。仕来りに則って身支度を終える、つまり、最高位の使用人の手から帽子を受け取る国王を拝謁した。国王がミサへと向かうため歩を進めた。わたしは傾いだ。デュラス元帥がわたしの名を告げた。《陛下、こちらがシャトーブリアン騎士です》。国王がわたしを見て、挨拶を返し、躊躇してから、わたしに話しかけたい素振りをみせた。わたしは確かな態度で返答しただろう。わたしの謙虚さは消え去っていた。自分が何を感じているのか気づかずに、軍の将軍や元首と話すことは全くもって容易く見えた。わたしよりも困惑していた王は発する言葉を見つけずに、遠ざかった。人間の命運の空虚さよ! わたしが初めて拝謁したこの君主、とても強大なこの帝王は斬首を六年後に控えたルイ十六世であった! そして彼にほとんど顧みられなかったこの新入りの宮廷人は高貴であることの証明を受けて聖ルイの子孫の偉大さの前に出たあと、骸骨のなかで骸骨を取り分ける責務を負い、忠信の証しを受けてやがて彼の塵に謁見するのだった! 王笏と棕櫚の枝[殉教のシンボル]から成る二重の王権への二重の敬意の徴し! ルイ十六世はユダヤ人に対したキリストのように裁判官に答えただろう。《わたしは多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか》[ヨハネによる福音書 日本聖書協会口語訳聖書]

 王妃が礼拝堂から戻ったときに途上にいるようわれわれは回廊へと急いだ。すぐに彼女は光り輝く無数の随行に囲われて現れた。彼女はわれわれに高貴なお辞儀をした。彼女は生の虜になっているようだった。そして当時数多の王の笏を沢山の優美さをもって支えたその美しい両手は、死刑執行人によって縛られる前に、ラ・コンシェルジュリーの囚人たる寡婦の襤褸を繕わねばならなかった!

 わたしから犠牲を得たにしても、それを推し進めさせるかは兄の勝手ではなかった。兄は徒にも晩の王女の遊戯への参加のためヴェルサイユに留まることを懇願した。《お前は——兄曰く——王女のもとに呼ばれ、そして王に語りかけられる》。逃げるのにそれほど良い口実はなかった。家具付きのホテルへと自らの栄光を隠しに急ぎ、宮廷から抜け出してきたことを幸せに思いながらも、まだ四輪馬車が並ぶ恐ろしい日1787年2月19日を眼前に見ていた。

 コワニー公爵がわたしに通告したのはサン=ジェルマンの森での国王との狩りの予定であった。拷問にむけ朝早くに、灰色の服、赤の上着と半ズボン、膝当て、乗馬靴、横につけた狩猟用ナイフ、金の縁飾りの小さいフランス帽という「新入り」の格好で赴いた。われわれはヴェルサイユ城にいる四人の「新入り」、わたしと、サン=マルソーの殿方二名、そしてオートフイユ伯爵であった。コワニー公爵が指示を与えた。彼と獣の間を横切れば国王が挙措を失うため狩りに割り入らぬよう注意した。コワニー公爵は王妃にとって致命的な名を負っていた。会合はサン=ジェルマンの森のなかのル・ヴァル、王室がボーヴォー元帥に委託していた領地で執り行われた。初めて狩りに参加する謁見者のために国王の厩舎から馬を提供するのが習わしであった。

 野原で太鼓が打たれる。軍隊の動き、命令の声。叫ばれる、「陛下!」。国王が出てきて、四輪馬車に乗る。われわれが次から次へと四輪馬車を走らせる。フランスの王とのこの狩りのこの流れから、ブルターニュのヒースでのわたしの走りと狩りまでは隔たりがあった。アメリカの野生人との疾走と狩猟までは更に距離があった。わたしの生はこれらの対照で満ちる運命にあった。

 集合場所に着くと、鞍を着用した多くの馬が手に持たれたまま木の下で苛立ちを見せていた。森の中で衛兵とともに停まった四輪馬車。男性陣と女性陣。係のものたちもほとんど押さえつけられていない猟犬の群れ。犬の吠え声、馬の嘶き、ホルンの音、それらがとても賑やかな場面を作り出していた。われわれの国王らによる狩りは、クロディオン、キルペリク、ダゴベルトの恐るべき暇つぶしやフランソワ一世、アンリ四世、ルイ十四世の恋慕といった、君主制における風習の新旧を同時に思い出させた。

 シャトーブリアン伯爵夫人やエタンプ公爵夫人、ガブリエル・デストレ、ド・ラ・ヴァリエール、モンテスパンを汎ゆるところで見ずにいられぬほどわたしは読書で頭がいっぱいだった。想像はこの狩りを歴史的観点から解釈しており、わたしは快適さを感じた。わたしは一方で森のなかにいながら、家のなかにもいた。

 四輪馬車から降りる際、猟犬係に切符をみせた。「幸福」という名の、軽量な動物だが口なし、臆病で、気まぐれに満ちた牝馬が用意されてあった。止めどなく耳を攲てたほど活き活きとしたわたしの命運のイメージ。鞍にまたがった国王が出発した。狩りは様々な経路にて国王を追う形で執り行われた。わたしは新しい主人にまたがられたくはなかった「幸福」と苦闘しながら後方に留まった。しかしながら、結局は彼女の背中のうえに聳え立った。狩りはすでに遠ざかっていた。

 はじめはとても上手に「幸福」を制御した。短いギャロップを強制させられた彼女は首を低くして、汗で洗われた馬銜を揺らして、少し飛び跳ねながら斜めに進んだ。だが行為の場へと近づいたときには、彼女を引き止めておく手段は何もなかった。鼻づらを伸ばし、鬐甲のうえの手を落として、大ギャロップで狩猟者の群れに突っ込み、道筋のうえのすべてを押しやって、何名かの爆笑と他の恐怖の叫びのなか、ほとんど転倒させそうになった女性のまたがる馬との衝突以外では停止しなかった。今わたしはわたしの弁解を礼儀正しく受け入れたこの女性の名を思い出すための無駄な努力をしている。あれはただ単に新入りの「冒険」が引き起こした問題であった。

 審判の終わりには近づいていなかった。落胆から一時間半後、森の人気のない箇所を抜ける長い道で乗馬していた。小屋が端で持ち上がった。そこでわたしは王室の森のなか、長髪の王[メロヴィング朝]の起源と彼らの神秘的な喜びの思い出のなか、点在するそれらの宮殿について思案し始めた。銃が発射される。「幸福」が急に方向転換し、茂みのなか低くした頭を擦り、まさにノロジカが撃たれたばかりの地点へとわたしを運ぶ。王が現れる。

 その時わたしは、遅すぎることだが、コワニー公爵の命令を思い出した。呪われた「幸福」は何でもやった。この雌馬を片手で後ろに押し出しながら、もう一方の手で帽子を低く保ちながら、地面へ降りる。国王はただ自身のまえにたどり着いた獲物の先の新入りだけをみる。国王は何か言う必要があった。憤るかわりに、善良な声音と太い笑いを伴いながら言った。《彼は長く持たなかったな》。これがルイ十六世から引き出し得た唯一の言葉である。人々があらゆる場所から集まってきた。彼らは王とお喋りをしているわたしを見つけて驚いた。新入りシャトーブリアンは二つの「冒険」で騒動を引き起こした。だがその後つねに彼の身の上に生じたことのように、幸運からも不運からも利益を得ることはできなかった。

 国王はもう三匹ノロジカを追い詰めた。新入りたちは最初の獲物を追うことしかできなかった、わたしは狩猟者の帰りを待つため仲間とル・ヴァルへ赴いた。

 国王がル・ヴァルに帰還した。彼は陽気であり、狩猟中の事故について語っていた。ヴェルサイユへの帰路に就いた。兄にとっての新たな失望。心構えもないまま勝利と計らいの瞬間に際するため着替えに行く代わりに、馬車の奥に身を投げ、名誉と悪事から解放された喜びに満ちてパリに戻った。わたしは兄にブルターニュに戻ることを決断したと宣言した。

 その名が知られたことで満足し、わたしの謁見では頓挫したものを自身のそれによっていつの日か成熟させることを期待しながら、同じく不格好な精神ゆえ兄は出発に反対しなかった。

 こうしたものが街と宮廷の初見であった。社会は想像していたよりも更におぞましく映った。だがわたしを怯えさせたとしても、落胆させはしなかった。漠然とながら垣間見たものより自分が優れていると感じた。克服しがたい嫌悪を宮廷に対し抱いた。この嫌悪、というよりむしろ隠すことのできなったこの軽蔑は成功からわたしを遠ざけるか、出世の最高点からわたしを陥落させる。

 それに加え、世界を知らないまま世界を判断しても、今度は世界がわたしを無視していた。わたしの出始めをみてどれほど価値あるものなのか誰も見抜きはしなかったし、パリに戻って来たときには一層見抜かれなかった。わたしの悲しき名声のあと、大勢の人物がわたしに向かって言った。《お若いときに知り得ていたのなら、どのようにあなたのことを気づけたでしょう!》。この好意的な自惚れは既に形成された評判の幻想でしかない。外だと人々は似通う。徒にもルソーは自分が全くもって可愛らしい小さい双眸を有しているとわれわれに語った。彼が不機嫌な学校の先生か靴の修理屋の風貌を有していたことは、肖像画をみる限り、不確かなことではない。

 宮廷にけりをつけるため、ブルターニュを再訪してから居を定める目的で年少の姉妹ルシルとジュリーを伴ってパリにやって来たあとこれまでにないほど孤独な習慣に沈み込んだことは言っておきたい。謁見の話はどうなったか尋ねられることになる。話はそこに留まった。——それでは国王とはもう狩りを為されなかったのですか?——中国の皇帝とよりかは。——それではヴェルサイユへはもう戻られなかったのですか?——セーヴルまでは二度いきました。心がわたしに反したので、パリに帰りました。——それではご自身の地位を全く活かされなかったのですか?——全く。——それでは一体何を為されていたんですか?——飽き飽きしていました。——つまり何の野望も感じなかったのですね?——事実感じていました。多くの策略と配慮のおかげで、その登場が期待と畏敬によりわたしを殺めてしまうところだったひとつの田園詩を『詩神年鑑』に掲載する栄光に浴しました。ロマンスを認めるために王の四輪馬車すべてを差し出したことでしょう。『かわいいミュゼット』! もしくは: 『移り気な羊飼いについて』。

 全てが他者にとって相応しく、わたしにとって良いことは何もない。それがわたしである。