墓の彼方からの回想 フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン
第二冊
1812年9月4日、この短信を警視庁長官パスキエ氏から受け取った:
《警視庁長官殿はシャトーブリアン氏に官房へのご足労を願う、時間は本日午後四時もしくは明日朝九時》
警視庁長官殿が指示しようとしていたのは、パリからの脱出命令であった。わたしは最初期ベルテヴィルの名を持ちそのあと四百年以上前に深い(錨泊可能)という意味の英単語deep
からディエップと呼ばれだした土地へと逃げた。1788年、ここで連隊の第二大隊とともに駐屯した。家々の煉瓦と商店の象牙のこの町、清潔な通りと美しい光から成るこの町に住むことは、自分の若さのそばへと身を寄せることだった。散歩をすれば、無数の瓦礫が添えられたアルク城の荒廃をみた。ディエップがデュケーヌの故郷であったことは誰も忘れていない。家にいるとき、海の壮観が傍らにあった。自らの座る机から、わたしの生まれを見た海、そこであれほどに長い亡命生活を耐え忍んだグレートブリテン島の、海岸を浸す海を、熟視した。眺めは、わたしをアメリカへと運び、ヨーロッパへと投げ返し、アフリカとアジアの海岸へと立ち返らせた波を通り越す。やあ、海よ、わたしの揺り籠、わたしのイメージ! あなたに話の続きを語りたい。わたしが嘘をつくならば、わたしの全ての日々と混じり合うあなたの波が、来たる人々の間で欺きを糾弾することだろう。
母はいつでもわたしが最上の教育を授かることを望んだ。わたしの命運が定めた海員の職は《自分の嗜好とは異なるかもしれない》と言っていた。母にはそれがどのような事態に陥ったとしても他の道に進むことを可能にする選択だと思えた。彼女の敬虔さはわたしが教会を選ぶことを祈らせた。そのため数学と素描、武器と英語とを習う学校に入れることを提案した。母は父を怯えさせる恐れからギリシャ語やラテン語に言及しなかった。だがそれらが、まず秘密裏に、上達した場合には公に、教えられることを期待していた。父は提案に賛成した。ドルの学校に入学することが認められた。サン=マロからコンブールへの途上に位置していたため、その町が好まれた。
学校に幽閉され、とても寒い冬が支配していたあいだ、われわれの滞在していた邸宅が火災にあった。わたしは炎のなか年長の姉に運び出され、救出された。シャトーブリアン氏は自らの城に退き、妻を呼んだ。父は春に合流するはずだった。
ブルターニュの春はパリ周辺と比べて穏やかで、花咲くのは三週間早い。アルモリカ半島の湾に居着く五種の鳥、ツバメ、ニシコウライウグイス、カッコウ、ウズラ、サヨナキドリがそよ風と共にたどり着き、春を告げる。大地は、ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノやサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメを囲う打ち捨てられた土地のように、フランスギク、パンジー、キズイセン、ラッパズイセン、ヒヤシンス、キンポウゲ、イチリンソウで覆われる。林間の空き地は優雅で背の高い羊歯の飾りと混じり合う。ヒトツバエニシダとハリエニシダの野原が黄金の蝶のため摘まれる花々で輝く。イチゴ、ラズベリー、スミレが実り豊かに育つ垣根沿いはサンザシ、スイカズラ、キイチゴで彩られ、それらの茶色い曲がった苗条は素敵な葉っぱと果実をつける。すべてが蜂と鳥で一杯になる。群れと巣が子どもたちを一歩みするごとに立ち止まらせる。ある屋根の下では、ギンバイカとキョウチクトウがギリシャのように土の只中から育つ。イチジクがプロヴァンスのように熟する。洋紅色の花をつけたリンゴの木々一本一本が町の花嫁が抱える大きな花束に似る。
十二世紀、フージェールのカントン、レンヌ、ベシュレル、ディナン、サン=マロ、そしてドルは、ブロセリアンドの森が占めていた。森はフランク人とドゥムノニアの人々の戦場として機能した。そこでは野生の男と、バロントンの噴水、黄金の池を見るとウァースは語った。十五世紀に物された歴史的文書『ブレシリアンの森のユズマンとその慣習』は『ルー物語』を確かめてある。森は、ユズマンらが言うには、巨大で広々とした空間である。《四つの城、数多の美しい池、有毒生物や蝿のいない美しい狩猟地、二百を数える森林、沢山の噴水があり、ブレントンの森と呼ばれ、騎士ポントゥスが手柄をあげた場所の近く》。
今日、その土地は出自の名残を残している。木々の覆う側溝と交じり、遠くからは森の雰囲気を持ち、イングランドを思い出させる。妖精の住まう場所であったそこで、のちにみるように、わたしは実際うら若きシルフと出会った。細長い谷は航行不可能な小さい川に濡れている。それらの谷は荒れ地とセイヨウヒイラギの株立ちから成る森林によって分かれている。丘のうえには灯台や、望楼、支石墓、ローマ建築、中世の城の廃墟、そしてルネサンスの鐘塔が建ち並ぶ。海が全体を縁取る。ブルターニュについてプリニウスが言った: 海の観衆たる半島。
海と大地の間では、ペラギウス主義者の辺境が、二つの要素の不確定な境界を伸ばしてる。野原の雲雀が海からの雲雀と飛んでいる。鋤鍬と小舟が短い距離で次から次へと土と水に軌跡を残す。航海士と羊飼いは互いの言葉を拝借し合う。船員はvagues moutonnent
[羊毛のように巻く波;白波]と言い、牧夫はflottes de moutons
[羊の船隊;羊群]と言う。多彩な砂、様々な貝殻の層、浜に投げ出された海藻、銀の泡の縁飾りが、金や緑の小麦畑の輪郭を描く。地中海のどの島で、わたしはケレースのドレスの下方に花づなを付けているネーレーイデスを表す浅浮き彫りを見たのか、もう覚えていない。
だがブルターニュにおいて賛嘆しなくてはならぬもの、それは大地の上に出てきて海の上に位置づく月である。
深淵の為政者として神に仕立て上げられた月は太陽のように、自らの雲を、靄を、光を、影を、纏う。しかし太陽のように単独で没するわけではない。星々の行列が付き添う。生まれの海岸に落ちると同時に、空の端へと下がる、沈黙を増し、海との疎通を図る。すぐに地平線まで降り、交差し、もう額の半分ほどしか見せず、眠りかぶり、傾斜し、波の柔軟な膨らみのなかに消える。自らの女王に接近する天体は、彼女に引き続いて飛び込む前に、潮の高まりに立ち止まり吊り下げられたように見える。月が横たわれば直ぐさま沖からの一吹きが、儀礼ののち消される松明の火のように、星座のイメージを打ち砕く。
わたしはコンブールまで姉たちに付いて行かなければならなかった。五月はじめの十五日間のうちに、われわれは出発した。日の出とともにサン=マロを離れた母と四人の姉、そしてわたしは、屋根の四隅に紫の飾り房がつけられたアンティーク調の、横板が二度金塗りされ踏み板が外側にはみ出している巨大なベルリン馬車のなかにいた。スペインの騾馬のように装飾した八頭の馬は、首の鐘と、頭絡の馬鈴、覆いと、様々な色からなる羊毛の縁飾りを纏い、われわれを牽引した。母がため息をつき、姉たちが息切れするまで話し続けるあいだ、わたしは車輪の回転ひとつひとつを二つの目で眺め、二つの耳で聞き、驚きを感じた。もう立ち止まることの出来ぬ、さまよえるユダヤ人の第一歩。もしもその男が居場所を変えることしか出来ぬとしても! 彼の月日と心は、だが、変わってゆく。
われわれの馬はカンカルの海岸上にある漁師の村で休息した。われわれはそれから幾つかの沼とドルの熱気ある町を横切った。すぐに戻ってくることになる学校の門を過ぎ、国の内部に浸かった。
四リューの致死的な経路では、ヒースは木で飾られ、荒れ地は均されず、短い貧弱なソバが種蒔かれ、燕麦畑には困窮者を見るばかりだった。石炭商たちは鬣が垂れ下がり縺れた小さい馬の列を率いている。目の粗い牝山羊の革の外套を着た長い髪の農民が鋭い鳴き声を上げるか細い雄牛を急かし、ファウヌスが耕すように重い鋤の後ろを進む。遂には池から離れてない底の部分で村の教会の尖塔が聳えている谷を発見した。封建時代の城の塔が沈む太陽に照って森林の木々の中から立ち昇っていた。
わたしは中断しなくてはならなかった。心臓が飛び跳ね、執筆する机が引き退くほどだった。記憶のなかで起き上がる思い出がわたしを力と多彩さで圧倒する。だが、それが世界の他にとって何になるというのだろう?
丘から下り、小川を渉った。半時間進み続けると、本道を離れ、車はわれわれの頭上で樹頭が絡み合いできたトンネルのなか五点形に並木の交じる横を走行した。いまだに木陰に入った瞬間と怯えるほどに感じた喜びを覚えている。
木々の暗闇から出てくると、管理人の庭と住宅とに繋がった胡桃の木が植わる前庭を越えた。そこから立派な門を通って「緑の庭」と呼ばれる芝生の中庭に達した。右側には長い厩舎とマロニエの花束があった。左側にもまた別のマロニエの花束があった。中庭の奥では気付かない程度に土地が盛り上がり、木の二つの纏りの間から城が姿を現した。悲しく厳しいファサードはカーテンウォールをみせ、歯飾りがつき覆われている出し狭間の回廊を支える。その城壁は旧さと材料、高さと厚みを異にする二つの塔と繋がっており、それらの塔は、ゴシックの冠のうえにボンネットが被さったように、尖った屋根を載せた胸壁で尽きている。
格子窓のいくつかが其処此処壁の裸形のうえに現れる。二十二段の幅広く急で真っ直ぐな外階段が、傾斜路や手摺もなしに、満ちた用水路のうえで、古い跳ね橋を置き換えていた。それは城の玄関まで届き、カーテンウォールの真ん中を突き抜けた。この扉の上ではコンブール領主の紋章とかつて跳ね橋が伸ばした腕と鎖のスリットをみる。
馬車は階段の足元で止まった。父はわたしたちの前にやって来た。家族の再会は暫くの間表情をとても優雅に見せるほど父の気質を和らげた。われわれは外階段を登った。よく反響する入り口の広間へと入り、尖頭アーチのあるこの広間から小さい内庭に出た。
この内庭から小さい二つの塔に繋がり南方に池を見下ろす建物に入った。城の全体は四輪チャリオットの形をしていた。われわれはかつて「守衛の間」と呼ばれた部屋のある階にいた。部屋の端ではそれぞれ窓が開いていた。他の二箇所は側線を切り取っていた。それらの四つの窓を大きくするために、八から十ピエの厚みがある壁を退かす必要があったのだった。大ピラミッドのように斜面についた二つの階段が部屋の外角から伸び、小さい塔へと導く。段々がそれらの塔のなかを蛇行し、守衛の間と上階の関係を築く。それがこのコール・ド・ロジだった。
大塔や分厚い塔のファサードのそれは北方を見晴らし、緑の庭のそばで四角く暗い寄宿舎の寝室の類を形成して台所として機能した。そこは入り口の広間や、外階段、礼拝堂から伸びていた。それらの部屋の上は「文書の間」「紋章の間」「鳥類の間」「騎士の間」となっており、彩った紋章の盾と描いた鳥とを散りばめた天井ゆえにそう呼称していた。細長い三つ葉形の窓の銃眼はとても深く、花崗岩の長椅子が周りで君臨する戸棚を形作っていた。これに加え、建物の様々な箇所には、秘密の通路や階段、地下牢や天守、開閉した回廊の迷宮、壁が囲いどう分岐しているのかが定かではない地下道があった。何処にでも沈黙があり、暗闇があり、胸像があった。それがコンブールの城である。
守衛の間で供され制約なしに食することのできた夕餉が、わたしの人生初めての好日を終わらせた。真の幸福は安価だ。高く付くなら、良き類のものではない。
翌日起床するとすぐに城の外を見て回り、孤独への到達を祝福した。外階段は北西を向いていた。この階段を横切る通路に座れば、緑の庭を眼前にし、庭の先の二つの林の間に菜園が広がっているのを目にする。右側(われわれの到着した五点形)は「小さなメル通り」と呼ばれていた。もう一方の左側は「大きなメル通り」だった。後者はオーク、ブナ、シカモア、ニレ、クリの樹林だった。セヴィニエ夫人は当時その古き木陰を讃えた。あの時代から百四十年の月日が美しさに加わった。
反対側では、南と東に向いて、風景が全く異なる絵を与えていた。大広間の窓を通して、コンブールの住宅や池、レンヌの本道が走る池の土手道、水車小屋、牛の群れで覆われ土手道によって池から隔てられている牧草地を垣間見ることができた。この牧草地の端ではコンブール領主リヴァロンによる1149年設立の小修道院に依拠した集落が広がり、葬送用に彫られた彼の像が騎士の鎧を身につけ仰向けになっていた。池の方から徐々に盛り上がる土地は木の円形劇場を形成し、そこから村の鐘と領主邸の小塔が突き出ていた。西と南の間の最後の地平にベシュレルの高みが輪郭を見せていた。剪定済みの巨大なツゲにより区切られた盛土がその方向の城の足元を循環し、厩舎の裏を過ぎて、幾度も揺れ動き、大きなメル通りへと通じる沐浴の庭に繋がった。
もしも、この冗長な記述に従って画家が鉛筆を持つなら、あの城に似るスケッチが生み出されるのだろうか? そうとは思わない。それでも、わたしの記憶はあの対象を眼前にするようにして見る。物質的なものに対するこうした言葉の非力さと思い出の強度よ! コンブールについて語り始めながら、わたしは自分以外を喜ばせはしない悲歌の、はじめの二行連を詠う。チロルの牧夫に尋ねよ、なぜ三四個の音を好んで牝山羊に繰り返すのか、なぜ木霊から木霊へ投げかけられる山の音を好んで急流の端々に鳴り響かせるのか。
コンブールへの最初の登場は短命に終わった。十五日も過ぎぬうちにドルの学長で神父のポルティエ氏が到着するのを見た。彼の手のなかに置かれ、涙ながら、あとに付いていった。
わたしはドルの完全な余所者ではなかった。1529年、大聖堂のクワイヤに最初の座席を設けたシレ・ド・ボーフォール、ギヨーム・ド・シャトーブリアンの一家の子孫であり代表として父はそこの律修司祭を務めていた。ドルの司教エルセ氏はわたしたち家族の友人であり、政治的にとても穏健な高位聖職者であった人物で、キブロンのル・シャン・デュ・マルティルにて膝を突きながら、十字架を握り、弟のエルセ神父と共に撃たれている。学校に到着したとき、修辞教師で幾何学にも造詣のあるルプランス神父の特別指導を受けることになった。氏は機知に富み、秀麗で、芸術を愛し、肖像画を見事に描く人物であり、ベズー本の教授を担った。エゴ神父は三年目に教諭を務め、わたしのラテン語の先生となった。わたしは数学を自室で学び、ラテン語は共同の部屋で学んだ。
わたしの種のフクロウが学び舎のかごに慣れ、鐘の音で飛行を制御するに至るまで幾らかの時間を必要とした。一週間のお金すら持たない貧しい悪童から得られるものなどないがために、幸運を齎すような手っ取り早い友人は得られなかった。守護者を嫌うわたしはお追従に加わることも決してなかった。遊戯のさい他者を率いようとはしないが、率いられたくはなかった。暴君にも奴隷にも合わず、それゆえ、わたしは今に留まっている。
集まりの中心になるときは、しかし、十分なほどすぐ訪れた。続けて、同じ力をわたしの連隊に行使した。単なる少尉であったわたしであるが、老将校は夕べをわたしの家で過ごし、喫茶店よりわたしの部屋を好んでいた。それがどこに由来するものなのかは知らぬが、他者の精神へと入り込み自在に慣習を取り入れることのできる能力に起因したものかもしれない。追いかけ走ることを読み書きほどに愛した。誰もが知ることを語らったり、持て囃された話題を喋ることには、未だ関心がない。野蛮ではないが、精神に全く不感となることはわたしと相いれない。いかなる瑕疵もわたしを悩ませぬが、嘲りと自惚れだけは不問に付すことが難しくなる。わたしに対しいくらかの優越を誇ろうとする他者を見つけ、偶然にもわたし自らの優位を感じてしまったときには、全くもって恥ずかしくなる。
最初の教育が眠らせたまま残した品格は学校で目覚めた。わたしの仕事に対する態度は特筆すべきもので、わたしの記憶力は並外れたものだった。数学では、ルプランス神父を驚かせる概念の明示をし、目まぐるしい進展をみせた。同時に言語への確とした嗜好を顕にした。生徒の拷問たり得る初歩は学習に何の苦労もなかった。幾何学の数字と図形からの休憩のように、ラテン語の授業時間を待ちわび、そわそわしていた。一年も経たぬうちに、五年目の科目を得意とした。特異的なことだが、エゴ神父がわたしを「悲歌詩人」と呼ぶほどラテン語で五歩格の文が自然と物せるようになり、その呼び名は学友たちに定着したようだった。
わたしの記憶に関して二つの特徴をここに残す。わたしは対数表を暗記した。つまり幾何学的比例で数字が与えられたのならば、記憶のなかから算術的比例で冪乗を探し出し、vice versâ
[その逆も然り]。
学校の礼拝堂に揃い晩課を終えると、校長が教鞭を取った。生徒がひとり無作為に選び出され、解釈を述べさせられた。遊戯で疲弊した状態で着くと、礼拝中は眠気で死にそうになった。われわれは長椅子に身を押し込み、見つかった挙げ句問い質されることのないよう暗い隅に潜もうとした。そのうえ告解室があり、確かな逃げ場所を争った。ある夜には隠れ処を勝ち取る幸運を得て、校長に対する安全を我が物にしたと考えた。残念ながら、校長は動きを察知し、わたしを見せしめ、処遇した。ゆったりと冗長に説教の第二点を読み上げた。みな、寝静まった。告解室のなか、どのような偶然から起きていられたかは分からない。爪先だけ見た校長は、わたしが他の人間と同じように揺れ動いていると思い、いきなり呼びかけて、何を読んだか尋ねた。
説教の第二点は神を侮辱してしまう様々な行為の列挙を含んでいた。事の要点を述べただけではなく、段落を再度順番通りに取り上げて、子供には理解できない神秘的な文章の幾ページかをほぼ一語一句繰り返した。賛嘆のざわめきが教会に起こった。校長はわたしを呼ぶと頬を軽く叩き、見返りに、翌日は昼食の時刻まで起床せずにいてよいこととした。学友たちの称賛から謙虚に逃れ、与えられた恵みをよく享受した。
こうした言葉の記憶力は完全にはわたしの内に留まらず、語る機会のあるかもしれない、もっと重要な別の種類の記憶に場所を作った。
わたしが恥ずかしく感じること: 記憶とはしばしば馬鹿らしさの度合いである。概して重い精神に属するものであり、過重な荷物を積むことで更に重くなる。だが、記憶なくして、われわれはどうあろうか? 友情や愛情、喜び、出来事を忘れてしまう。天才は考えを纏めることができなくなる。もはや覚えてさえいられないのなら、最も愛情深き心も優しさを失う。わたしたちの存在は止めどなく流れる現在の連続した瞬間へと還元される。もう過去はない。われわれの悲嘆よ! われわれの生はただの記憶の反映であるほどに空無だ。
休暇はコンブールで過ごした。パリ周辺の城での生活は、僻地の城での生活に関して何の考えも与えない。
コンブールの土地は木材がほとんど価値を持たない地域の中にあり、全域を見ても有していたのは荒れ地と水車小屋のいくつか、そして、二つの森ブルグエとタノエンだけだった。だがコンブールは封建的権利に富んでいた。その権利は多岐に渡る。承認ごとに特定の権利料の支払いを定めていたか、もしくは、古き政治的秩序に端を発する慣習を固定化していた。その他はもともと単なる余興であるようだった。
父は時効を防ぐために最後の権利をいくつか復活させた。家族が一堂に会したとき、そのゴシック遊戯に加わる。主要なものは「ル・ソ・デ・ポワソニエ[魚屋の飛び込み]」、「ラ・カンテーヌ[的を用いた馬上槍試合]」、そして「ランジェヴィーニュ」と呼ばれるフェアの三つである。木靴と半ズボンを履いた農民、つまりはかつてのフランスの男たちが、当時既に失われていたフランスの遊びを観戦していた。勝者には褒賞があり、敗者には罰金が課せられた。
ラ・カンテーヌは馬上槍試合の伝統を受け継いでいた。おそらく古代の封土における兵役と何かしら関係があった。デュ・カンジ(voce QUINTANA
[『クインターナの声』])が巧みに描写している。罰金として、それぞれ二十五「パリ製ソル」の価値がある「王冠が描かれた金の羊の金貨二枚」分を、古い銅貨で支払う必要があった。
ランジェヴィーニュというフェアは毎年わたしの生日である9月4日にレタン[l’Étang
;池]の牧草地にて催された。封臣たちは武器を取らねばならず、城を訪れ、領主の幟を掲揚した。そこからフェアへと赴き、交通整理をし、コンブールの伯爵たちに負う形で動物一頭ごとの通行料の回収を手助けしたが、これは実施料のようなものだった。この時、父は自宅を開放していた。人々は三日間踊り続けた。大広間の殿方はヴァイオリンの引っかきに合わせた。緑の庭にいた封臣らはミュゼットの鼻声に合わせた。歌って喝采し火縄銃を撃った。それらの騒ぎがフェアにいる動物の唸りと混じっていた。群衆は庭と森を逍遥し、少なくとも年に一度は喜びに似た何かがコンブールで見受けられたのだった。
それゆえ、生の中でラ・カンテーヌの競技と人権宣言に際するという十分なほど奇妙な境遇に置かれた。ブルターニュの村のブルジョア民兵団とフランスの国民衛兵を目撃しながら、コンブールの領主の幟と革命の旗を見た。わたしは封建的慣習の最後の目撃者であるようだ。
城が受け入れた訪問者は村人たちと郊外の貴族から成っていた。これらの誠実な人々がわたしの最初の友人だった。われわれの虚栄はこの世で演じる役柄に重きを置きすぎている。パリの住民は小さな町の住民を嘲笑する。宮廷の貴族は田舎の貴族を愚弄する。著名な人間は、時がそれぞれの主張を平等に評価することや、自らが皆等しく戯け者であるか次なる世代の目に無関心であることに気づかず、無名の人間を嫌悪する。
その地の第一の住人は東インド会社の元船長ポトレ氏であり、ポンディシェリの大いなる話を繰り返し語った。彼がテーブルに肘を突きながら物語ると、父はつねに顔めがけてお皿を投げつけたくなった。続いて煙草倉庫業を営むロネイ・ド・ラ・ビヤルディエール氏がやって来たが、彼はヤコブのように十二人の子を数える家族の父であり、九人の娘と三人の息子がいて、そのうちの最年少ダヴィッドはわたしの遊び仲間であった。1789年、善良な彼は自らが高貴なる身分を望んでいることに気がついた。頃合いを選んだものだ! あの住宅のなかでは、沢山の喜びと、多くの負債があった。ゲシュベルト執行官、プティ財務代理人、クルボアジェ徴税官、礼拝堂聖職者シャルメル神父が、コンブールの社交界を形成していた。わたしはアテネで彼ら以上に著名な人物と出会うことがなかった。
デュ・プティ=ボワ氏、シャトー・ダシ氏、タンテニアック氏、そして他の一名か二名の紳士が日曜日になると小教区のミサを聞きに訪れ、つづいて城主と昼食を共にした。わたしたちはその中でも特に、トレモーダンの旦那と非常に美しい妻、そして気取りのない姉と幾人かの子供から成る一家と関わり合いを持った。この家族は鳩小屋のみが高貴さを示す小農地に住んでいた。そして今もトレモーダン家が住んでいる。わたしより賢明で、わたしより幸福であり、わたしが去ってから三十年もの間、眺めの中から城の塔を失うことがなかった。わたしが彼らの食卓に茶色いパンを頂きにいく際、彼らが行っていたことは未だに行われている。わたしがもう訪れることのない隠れ家から決して去ることがなかった。もしかすると、このページを記している最中も、わたしのことを話しているかもしれない。保護下にある薄暗闇から彼らの名前を引き出した自分を責める。彼らは話を聞いた人物が小さな騎士であることを長いこと疑っていた。コンブールの主任司祭セヴァン神父は、わたしが説教を聞いていたまさにその人であり、同じ不信感を顕にしていた。農民の朋輩である悪童が宗教の擁護者なのか、彼は確かめることが出来なかった。遂には信認することとなり、膝上に抱えたあと、説教の中でわたしに言及した。外来の考えをわたしのイメージと結びつけず、幼少期と青年期の有り様のままわたしを見ている威厳ある人々は、時の仮装のなかで、今日のわたしを認識するのだろうか? 彼らが抱擁を望むまえに、名を申さねばならぬだろう。
わたしは友人たちに悪運をもたらす。ロールと呼ばれた密猟監視人はわたしを大事に思ったが、密猟者によって殺された。この殺人はわたしに尋常ではない印象を与えた。人の犠牲というのは如何に奇妙で謎めいたことだろうか! なぜ最も重い罪や最も偉大な栄光のため人の血が流されなければならぬのだろう? わたしの想像が自らの手にはらわたを持ちそこで息絶えることになる茅葺住宅へと這い込んだロールを描き出す。復讐の考えが頭をよぎった。暗殺者との戦いを望んだだろう。この点に関して、わたしは特異的な生まれ方であった。辱めを受ける最初の瞬間は、痛みを感じない。だが、それが記憶に彫り込まれる。それらの思い出が、縮減するかわりに、時を経るごとに増大する。幾年幾月を心のなかでまるまる寝て過ごし、それから新たな力を伴った微かな動きの中で起き上がると、傷口は初めの日より敏感になる。だが敵を許さないとしても、わたしは彼らを傷つけることもない。憤慨しながらも、復讐心は決して持たない。報復のための力を有すれば、憎しみを失う。不幸のなかでのみ危険な人物となる。わたしが自らを抑圧することで身を引くとでも考えたのなら誤りだ。わたしにとっての困難はアンタイオスにとっての大地であった。わたしは母の子宮のなかの力を取り戻す。幸せに抱きしめられたのなら、窒息していただろう。
多大な後悔とともにドルへと戻った。翌年にはジャージー島へと侵攻し、サン=マロ近くで宿営する計画があった。軍隊がコンブールに駐屯していた。つづいてシャトーブリアン氏は、礼節のために、トゥーレーヌとコンティから来る大佐と連隊の避難所を設置した。ひとりはサン=シモン公爵で、もうひとりはコザン侯爵であった。毎日大勢の将校が父のテーブルに招かれた。余所者の冗談はわたしを不快にした。彼らの散策がわたしの森を騒がした。わたしはコンティから来た連隊の中佐ヴィナクール侯爵の襲歩で木の下を駆ける姿をみたことで、旅行のアイディアというのが初めて頭に浮かんだ。
われわれの客人がパリや宮廷について話しているのを聞くとき、わたしは悲しくなった。それがどういう社会であるのか探ろうとした。それが混乱していて遠い何かであることは分かった。だがすぐに困惑した。無垢で物静かな領域から世界に目を向けると、空の只中で彷徨う塔の天辺から地表を眺めたときのようにわたしは目眩がした。
それでもわたしを魅了したのがパレードだった。緑の庭では毎日、階段の足元を交代の衛兵が行進し、それを太鼓と音楽が先導した。コザン氏は沿岸の宿営地をわたしに見せることを提案した。父はそれに同意した。
わたしはとても立派な紳士であるラ・モランデ氏に連れられてサン=マロに向かったが、彼は貧困のためコンブールの土地の管理人の地位に収まっていた。露天商の灰色の格好をして、襟には小さな銀の織り紐をつけ、耳に灰色のフェルトや前に一本だけ角のある兜、もしくは頭巾を被っていた。わたしを彼の後方、牝馬イザベルの臀部に跨がらせた。狩猟用ナイフの掛かったベルトを上から締めてある彼の服に掴まった。わたしは魅了された。クロード・ド・ビュリオンとラモワニョン議長の父、そして子どもたちが地方を回っていたとき、《両方を籠に入れ、同じ驢馬に乗せて、ひとつは横に、もうひとつは反対側につけて運び、釣り合いを取るため同朋より身軽だったラモワニョンの側にパンを置いていた》(『ラモワニョン議長の回想』)。
ラ・モランデ氏は近道をした:
いといかめしくよろこびながら 森と川の中を行く。 誰も誰もフランソワのやうによろこびながら 森の中を行かぬけにや。
十分な数の修道士が配属されておらず、ちょうど修道会の中心部と統合したばかりだったベネディクト会修道院に昼食のため立ち寄った。そこにいたのは動産の処理と森林の伐採を任された財務係の神父だけだった。小修道院長の旧図書室にてわれわれに素晴らしい精進料理の昼食を振る舞った。わたしたちは大きな鯉や川魳に合わせて新鮮な卵を沢山食した。回廊のアーケードを抜けた先に、池を縁取る大きなシカモアが見えた。斧が根本を打ち、樹頭は上空で揺れ、倒木の壮観がわれわれに捧げられた。サン=マロから訪れた大工は、若い髪の毛を刈り取るように、もしくは倒れた幹を四角くするように、鋸を使い緑の枝を地面へ切り落としていた。わたしの心は欠けた森と無住の修道院の眺めのために血を吐いた。宗教施設の全国的な略奪は、この修道院の剝落がわたしにとっての予兆であったことを思い出させる。
サン=マロに着くと、そこでコザン侯爵と会った。わたしは彼の保護のもと、宿営地の通りを見て回った。テントと叉銃、ピケットの馬々が海や船、町の大きな壁や遠くの鐘塔とともに美しい風景を成していた。その中でひとつの世界が失われようとしている人物のひとりローザン公爵が軽騎兵の制服を着てバルブ種に跨がり全速力で駆けてゆくのを見た。少し足に不自由があるも可愛らしいボワガラン氏の娘と結婚したカリニャーノの王子が陣営を訪れた。その婚約は大騒動を引き起こし、今日でもまだ兄のラクルテル氏が答弁している訴訟へと持ち込まれた。だが、それとわたしの人生に一体どんな関係があるというのだろうか? 《私的な友の有する記憶が——モンテーニュ曰く——全体的な事象を設えれば設えるほど、友人たちは語りを遠くへ、話がよいものであるならば良きものを窒息させるまで後退させる。そうでなければ、あなたは彼らの恵まれた記憶か、不幸な判断を呪うことになる。わたしはとても喜ばしい物語が領主の口を経て大変退屈な物語になるのをみた》。残念ながらわたしはその領主となっている。
ラ・モランデ氏がわたしを降ろしたとき、兄はサン=マロにいた。ある夜、兄はわたしに言った: 《見世物に連れていきます。帽子を被りなさい》。わたしは呆然とする。帽子を探すため地下へと真っ直ぐに降りていくが、帽子は屋根裏部屋にあった。旅役者の一座が上陸したばかりだった。からくり人形は見たことがあった。劇場でみるプルチネッラは路上でみるよりとても美しいのだと考えていた。
心臓が高鳴るなか、町の寂れた通りに建つ木造の公会堂へ着く。暗い廊下を抜けるが、恐怖に特有の動きなしにはいかない。小さな扉が開く、そして、兄とともに半分埋まっているボックス席へと入る。
幕が上がり、劇が始まった。『一家の父』が演じられた。二人の男が喋りながら舞台の上を散策して、皆が注目する様を目にする。彼らを観衆の到着を待ちながらジゴーニュ夫人の小屋の前で話し合うからくり人形の監督たちだと解釈した。彼らが出来事を声高に語り、人々がそれを静かに聞いているということに、わたしはただ驚かされた。この驚愕は他の登場人物たちがその場に到着し大きな身振りをして嗚咽し始めた時と、それぞれに伝染して皆が泣き出した時に倍増した。これらの事情をひとつでも理解する前に幕は閉じた。二作の合間に兄はロビーへと降りていった。見知らぬ人々の只中でボックス席に留まり内気さがわたしを拷問すると、学校に隠遁したくなる。それがソポクレスとモリエールの芸術から受け取った第一の印象である。
ドル滞在の三年目は年長の姉二人の結婚により印象付けられた。マリアンヌはマリニー伯爵と、ベニーニュはケブリアック伯爵と婚姻した。彼女たちはフジェールまで夫のあとを追った。構成員がすぐでも離れていってしまうという一家離散の知らせ。姉たちの結婚式は同じ日の同じ時間にコンブールの城の礼拝堂内にある同じ祭壇で執り行われた。彼女たちは泣き、母は泣いた。わたしはその痛みに驚いた。今日ではそれを理解する。わたしが洗礼式や結婚式に苦々しい笑いや胸が締め付けれる感じなしで参列することなどない。不幸な生まれののち、わたしは人に生を授けること以上の不幸を知らない。
同じ年、家族の中で起こったように、個人的な革命が起こった。偶然がわたしの手の中へ全く異なる二冊の書物、無修正のホラティウスと『下手に行われた告白』の物語、を落とした。その二冊がわたしの思想に引き起こした激動は信じがたい。わたしの周りで異様な世界が持ち上がった。一方ではわたしの齢において理解不可能な秘密、わたしのものとは異なる存在、わたしの遊戯を超えた喜び、知られざる本性の魅力を、母や姉を介してのみ見ていた性のなかに疑った。他方では鎖を垂れ下げ火を吐く亡霊がひとつの隠れた罪を処する永遠の拷問を告げていた。不眠となった。夜半、黒い手と白い手が次から次へとカーテンを超えてゆくのを見たと思った。これらの最期の手は宗教により呪われたものだと想像しだし、その考えが地獄の影への恐怖を強くした。重なり合う二つの謎の解釈を徒に天国と地獄に求めた。士気と身体が同時に打たれたがために、未成熟な情熱と迷信による恐怖の嵐に対し無垢のまま争い続けた。
そののち、生を伝達するいくつかの炎の煌めきが逃げてゆくの感じた。『アエネーイス』の第四巻を説明し、『テレマックの冒険』を読んでいた。突然ディードーとエウカリスの中にわたしを鷲掴みにする美を発見した。称賛すべきそれらの詩句と古き文章の調和に敏感となった。ある日準備もなしにルクレティウスのÆneadum genitrix, hominum divûmque voluptas
[アエネーアースの母、人と神の喜び]をとても快活に訳し、エゴ氏がわたしを詩から引き離してギリシャ語の語根のなかに追いやったほどだった。そしてティブッルスの著作を盗んだ。Quam juvat immites ventos audire cubantem
[狂風を凭れながら聞くことの何たる喜び]へ辿り着いたとき、憂鬱と官能の感覚がわたし自身の特性を解き明かしたように思えた。「罪の女」と「放蕩息子」の説教を含むルシヨンの著作はわたしの傍から決して離れなかった。わたしがそこに何を見つけていたか殆ど勘ぐられることなく、拾い読みの指導は続いた。魂の無秩序に関する蠱惑的な説明書きを夜間に読むため礼拝堂から蝋燭の先を少しだけ拝借していた。最良の形でラシーヌ的音響を散文へと移し替える作家の甘さと数字と気品を試み、布置しようとして、一貫性のない文を口ごもりながら眠りについた。
のちにわたしがキリスト教的な良知良能と混じり合った心の機微をいくつかの真実とともに描き出し得たとするならば、その成功はふたつの敵対する帝国を同時に知り得た偶然に負っていると信じる。悪書がわたしの想像力に加えた損害は他の書物が与えた恐怖を補正するものであり、それらは覆いなしの絵画をわたしに残した柔らかな思想のため物憂げであるようだった。
不幸は重なるものだというが、それは情熱にも当てはまる。ミューズやフューリズのように一緒にやって来る。自らを苦しめだした嗜好とともに、わたしの中に生じたのは誉れだった。退廃のただなかで退廃せぬよう心を保つ魂の高揚。愛が若さに求める尽きることのない驚異の源と、課される犠牲のような、放蕩の原則の近くに置かれた修理の原則らしきもの。
天候に恵まれていれば、学び舎の寄宿生たちは木曜日と日曜日に外出した。われわれはガロ・ローマの荒廃が見受けられる頂きモン・ドルに屡々連れて行かれた。孤立した塚の高みでは、今日ランプのなかで燃える魔術師の光たる鬼火の夜間飛び回る海や沼地の上を目が漂う。散策のほかの目的はウード会、会を設立した歴史家メズレーの兄弟ウードの、神学校を囲う牧草地にあった。
五月のある日、ウード神父が完璧な週を利用してわれわれをその神学校へ連れて行った。遊戯が多大な自由さのなかで許されたものの、木登りの禁止が厳命された。教諭は草深い道にわれわれを落ち着けると聖務日課書を読むため離れていった。
ニレの木々が道に沿っていた。最も高い頂きではちょうどカササギの巣が輝いていた。わたしたちはそこで感嘆とし、卵の上に座る母どりを相互に見せ合い、この極上の獲物を掴み取りたいという一番快活とした欲求に急かされた。だが誰が敢えて冒険を試みるだろう? 命令は厳格で、教諭はとても近く、樹木はとても高かった! 全ての希望がわたしの方を向く。一匹の猫のようによじ登った。躊躇するも、栄光が打ち勝つ。上着を脱ぎ、ニレを抱きしめ、登り始める。三分の二まで伸びた箇所以外幹は枝なしだったが、その箇所では枝分かれが形成され、先端のうちの一本が巣を支えていた。
木のしたに集まった学友たちが努力を称え、わたしを見つめ、監督生がやって来られる地点を見て、卵の期待による喜びから足踏みし、懲罰の予感による恐怖から死にかけている。巣に近づく。カササギが飛び去る。卵を鷲掴み、それらを肌着のなかに仕舞い込み、降りてゆく。不幸なことに、体を双幹の間で滑らせてしまい、跨がることになる。木は枝刈りされており、右にも左にも足を踏み込めず、外側に飛び上がって再び大枝を掴むことができなかった。わたしは上空五十ピエのところで静止して留まる。
突然の叫び: 《教諭が来た!》、そしてわたしの元から友人たちが慣例のごとく一斉に立ち去るのを見る。唯一ゴビアンと呼ばれていた者が手助けしようと試みたが、寛大な企てもすぐに放棄せざるを得なくなった。疾しい立ち位置から抜け出す唯一の方法は、外側へと二つに分岐する歯型の枝のひとつに手で吊り下がり、分岐点のしたの木の幹を足で捉えることだった。生を賭してこの操作を実施した。患難の最中、宝物は手放さなかった。しかしながら、のちに他の多くをそうしたように、投げ出してしまえば良かっただろう。幹を下りながら、手を擦り剥き、足と胸を傷つけ、卵を割っていた。これが我を失わせたものである。教諭がニレの上にいるわたしを目撃することはなかった。流血は手際よく隠しえたものの、塗りたくった輝かしい黄金色を覆う手段はなかった。《来なさい——わたしに向かって言った——あなたは、鞭打ちです。》
もしもこの人物が処罰を死刑にでも減軽すると表明したのならば、わたしは喜びの動きを体感していただろう。野生の教育に恥の考えが近づくことはなかった。人生のすべての時期において、生きた創造物のまえで顔を赤らめなくてはならない恐れよりも好まなかった責苦はない。心のなかで憤りが生じた。エゴ神父に対し少年の口調ではなく男の口調で、神父だろうと誰だろうとわたしに手を上げる道理はない、と答えた。この返答は彼を駆り立てた。わたしを反逆者と呼び、見せしめにすることを誓った。《今に判ることでしょう》と返答したわたしは、彼をまごつかせる冷静さで玉遊びを開始した。
われわれは学校へと戻った。教諭はわたしを部屋に招いて、服従するよう命令した。揚々とした心持ちから滂沱たる涙を流した。エゴ神父がラテン語を教授していたことを思い浮かべた。わたしは彼の教え子で、弟子で、彼の子供だった。自らの生徒を侮辱して、学友たちの視線を耐えられないものにしたくはなかっただろう。牢屋に入れ、バンと水を与え、娯楽を奪い、宿題を負わせることもできた。この恩赦に感謝し、神父を更に愛することになるだろう。膝下に侍り、手を丸め、イエス・キリストの名において救済を請うた。神父はわたしの祈りに対し聾のままだった。憤懣やる方ない態度で立ち上がり、神父が泣き声を上げるほどの酷い蹴りを足に食らわせた。神父はよろめきながら部屋の扉へと駆ける、鍵を二回転させて締め、わたしのところへ戻ってくる。寝台の背後に退避する。神父が木べらの打擲でわたしを寝台に横たわらせる。毛布に包まり、闘争へと逸り、叫ぶ:
Macte animo, generose puer!
[勇気を揮え、気高き子よ!]
この低学年の博識は敵を不本意にも笑わせた。彼は休戦を申し出た。われわれは協定を結んだ。学長の仲裁に任せることを同意した。学長は、わたしに軍配を上げずに、拒絶した罰則の適切な回避を望んだ。優秀な司祭が無罪判決を下したとき、わたしは真心と感謝の迸りから彼のローブの袖に口づけをし、神父が祝福を与えずにいられないほどだった。それゆえ、その先幾度も慰安や快楽や富を犠牲にすることとなる、生において崇高な対象となる誇りを取り戻した最初の闘争を終えた。
わたしが生の十二年目を迎えた休暇は悲しいものとなった。ルプランス神父がコンブールまで付き添った。わたしは家庭教師とのみ外出した。長い散策を運任せに行った。彼は胸の痛みで死にかけていた。彼は抑うつ的で黙っていた。わたしはもう明るくはいられなかった。互いに一言も発することなくまるまる数時間並んで歩き続けた。ある日、森の中で道に迷った。ルプランス氏はわたしの方を向き、言った: 《どの道を取るべきでしょうか?》。わたしは躊躇することなく答えた: 《日が沈んでいます。間もなく大塔の窓が打たれるところです。あちらを行きましょう》。ルプランス氏は夜になってこの事を父に語った。この判断の中にのちの旅人が姿を見せていた。幾度も、アメリカの森林のなかで日が沈みゆくのを見ながら、コンブールの森を思い出した。わたしの記憶は木霊する。
ルプランス神父はわたしに馬を授けることを望んだ。だが、父の考えでは、海軍将校が船舶以外の操縦に通じる必要はなかった。わたしは四輪馬車の図太い牝馬二頭、もしくは大きな駁毛の馬一頭にひっそりと跨がるよう収まった。この駁毛は、テュレンヌのそれとは違い、ローマ人によってdesultorios equos
[曲馬の馬]と呼ばれた軍馬の一頭ではなく、飼い主を救援するための躾けを受けてはいなかった。それは跑足で蹄鉄を鳴らし、どぶを越えるよう強いたときにはわたしの足に噛み付く気分屋のペガソスだった。馬を十分に気遣っては来なかったが、わたしはタルタル人の生を送り、最初の教育が生み出しただろう効果に反し、いまでは堅実というよりも優雅に乗馬する。
わたしがドルの沼地からその菌を運んだ三日熱はルプランス氏を立ち退かせた。オルヴィエタンの商人が村を通った。全く医者を信用していなかった父は薮医者を信じた。父は彼を探しに行かせ、経験主義者はわたしを二十四時間で治癒すると宣言した。彼は金で縁取った緑の上衣を着、粉を吹いた長い髪を乱し、袖口のモスリンは汚れたまま、指に偽の宝石を輝かし、黒い繻子の半ズボンを履き古し、青みがかった白絹の靴下と、巨大な留め具付きの革靴で、次の日に戻った。
彼はカーテンを開き、心拍を測り、舌を出させ、洗浄の必要性に関し幾つかの言葉をイタリア語訛りで不正確に話し、カラメルの欠片をわたしに与えて食べさせる。彼は全ての病気が消化不良から来るものであり、あらゆる不調に対し血を吐くまで洗浄する必要があると主張していたため、父はこのやり取りを承認した。
カラメルを飲み込んでから半時間ののち、酷い嘔吐に見舞われた。皆の進言を受けたシャトーブリアン氏は哀れな人物を塔の窓から飛び降りさせたがっていた。怯えた当の人物は上衣を脱ぎ、至極滑稽な真似で肌着の袖を捲った。一つ一つの仕草と共にあらゆる方向へかつらが捻れた。わたしの嘆きを繰り返し、《Che
? ラヴァンディエのたんな!》と付け加えた。このラヴァンディエ氏とは村の薬剤師で、応援に呼ばれていた。この人物の薬で死ぬのか、彼によって引き出された爆笑で死ぬのか、痛みの最中知らずにいた。
その強力でありすぎる催吐剤の投薬効果を止めさせ、わたしは再び立ち上がった。われわれの生は全く墓の周りで彷徨い過ぎてゆく。種々の病はわれわれを港あたりに近づける一吹きである。わたしが初めて見た死者はサン=マロの律修司祭だった。寝台に息絶えたまま横たわり、最後の痙攣で顔は歪んでいた。死は美しい、彼女はわたしたちの友人だ。しかしながら、彼女を認識することは出来ない、なぜなら仮面をつけて現れ、その仮面がわたしたちを怯えさせるからだ。
秋の終わりに学校へと送り返された。
警察からの勧告で身を隠すことになったディエップから、わたしがこの語りを続けているラ・ヴァレ=オ=ルーへの帰還が許された。正にこの時祖国を侵略する余所者の兵隊たちの足踏みのもと大地は揺れている。野蛮人が行う侵略の騒ぎのなか、最後のローマ人のように、わたしは書く。日中、あの日の出来事ほどに揺れ動く頁をしたためる[『ボナパルトとブルボン』]。夜は遠くの大砲が転がる音も森の中で途切れ、わたしは墓に眠る年月の沈黙へと、最も若き思い出の安らぎへと戻る。民衆の有する広大な現在と底知れぬ未来に対し、いかに人の過去の狭く短いことか!
学び舎での冬はすべて数学、ギリシャ語、ラテン語に費やされた。勉学に捧げなかったものは、何処の土地でも類似する、生の始まりの遊戯へと受け渡された。小さなイングランド人、小さなドイツ人、小さなイタリア人、小さなスペイン人、小さなイロコイ人、小さなベドウィン人が輪を回し、玉を投げる。大家族の兄弟たち、どんな場所でも、無邪気さを失うことでのみ子どもたちは類似性の筋を失う。ゆえに風土、政治、慣習が作り変える情熱は様々な国家を生み出す。人類は同じ言語を理解し話すことをやめる。これが真のバベルの塔たる社会である。
ある朝、大きな校庭で行われたケイドロの試合でとても快活だった。彼はわたしのところに来てご所望だと言った。外の門まで使用人のあとに付いて行った。赤ら顔の、無礼かつ気短な作法をした、粗暴な声音の、手に杖を持ち、酷く巻いた黒い鬘をはめた、破けた司祭平服をポケットまで捲っている、埃塗れの靴で、踵が穴空きの靴下を履いた太った男を見つける。《小さいガキンチョよ——わたしに向かって言った——コンブールのシャトーブリアン騎士ではあるまいな? ——そうです、ムッシュと呼びかけに驚いて答える——なら、わたしが——と殆ど泡を吹いて続ける——お前の家族の本家当主である、ゲランドのシャトーブリアン神父だ。よろしく頼む》。誇らしい神父はパンベルベットの古い半ズボンに付いたベルト内ポケットに手を置き、六フランの黴びたエキュを取り、汚らしい紙に包み、わたしの顔に投げて、憤怒の調子で朝の祈りをつぶやきながら、また旅路を歩み始める。のちにコンデ公がこの田舎者貴族兼助任司祭にブルボン公の家庭教師を願い出ていたことを知った。シャトーブリアンの男爵位を持つ大公はその男爵位の後継者が誰かの家庭教師になるのではなく家庭教師をつけることが出来るのだと知るべきと僭越な司祭は答えた。この傲慢さがわたしたち一家の欠点だった。父の醜悪なところだった。それを兄は馬鹿げたところまで押し上げた。兄の年長の息子が少しばかり譲り受けた。わたしは共和制を志向しているにも関わらずこうした軛を完全に逃れているのか定かではないものの、注意深く隠し通してきた。
家族のなかで子供の将来を決定する初聖体拝領の時期が近づいていた。この宗教儀式は若きキリスト教徒の間でローマ人のトガビリリス着用に等しいものだった。シャトーブリアン夫人は母から離れ神と共になろうする息子の初聖体拝領式に参列した。
わたしの敬虔さは誠実であるようにみえた。学堂全体を啓発した。わたしの眼差しは熱烈だった。繰り返しの節制が教師をも心配させた。すぎた献身に皆怯えた。啓蒙された信念が熱意を和らげようと模索した。
聴罪司祭としてウード会神学校の上席である厳格な風貌で齢五十の人物がついた。わたしが告解室へ姿をみせたとき、彼は毎回不安げに問いただした。罪の軽さに驚き、わたしの問題と彼の胸に預けた秘密の些細さとをどう結びつければよいのか、理解できずにいた。復活祭の日が迫るほど、司祭の問いは圧力を増した。《何も隠す事はないのですね?》とわたしに言った。わたしは答えた、《いいえ、神父さま——しかじかの罪を犯していないのですね?——いいえ、神父さま》。そして、いつも同じように、《いいえ、神父さま》。神父は疑い、ため息をつき、魂の奥底までもを見つめながら、わたしを帰し、わたしは罪人のように青白く歪んだ顔で彼のもとから去った。
聖水曜日に赦罪を受けるはずだった。火曜日から水曜日にかけての夜を祈りながら過ごし、『下手に行われた告白』の本を怯えながら読んでいた。水曜日の午後三時に神学校へと出立した。各々の両親がわれわれに付き添っていた。以後わたしの名に纏いついている無駄な擾乱はどれを取ろうと、宗教の偉大なる神秘に係わる準備のできた息子を見ながらキリスト教徒や母として感じた誉れの一瞬間をもシャトーブリアン夫人に与えぬだろう。
教会に着きながら、聖域の前で平伏し、滅却したかように留まった。上席の待つ聖具室に向かうため立ち上がったとき、膝がわたしの下で震えていた。司祭の足元に跪いた。つづけて最も風変わりな声だけでわたしは回心の祈りを唱えた。《ええと、何も忘れていませんね?》と、イエス・キリストの男がわたしに言った。わたしは黙ったままだった。彼の問いは再開され、破滅の言「いいえ、神父さま」がわたしの口から出てきた。神父は考えを纏め、魂を結び解す力を使徒に授ける彼の人物の助言を請うた。そして努力し、赦罪の準備をする。
わたしの上へと天の発する稲妻もそれほどの恐怖を引き起こすことはないが、わたしは声を上げた。《まだ全てを申し上げていません!》。その顔が十分な恐れを呼び覚ます、この畏怖すべき審問官、この君臨する仲裁者の使節が、最も優しげな羊飼いとなる。わたしを抱きしめ、泣き崩れた。《さあ——とわたしに言う——勇敢な愛しきわが子よ!》。
残りの人生においてこれほどの瞬間は持てぬだろう。山の重みが取り払われたとて、これ以上の安らぎはなかっただろう。幸福に啜り泣いた。敢えて言うならば、わたしはこの日を元に正直な人間として生み出された。二度と悔恨を耐え抜くことができないと感じた。子供の有する弱さを沈黙させるためそれほど苦しむことができたとすれば、一体罪のそれはどれほどのものだろう! しかし、それ故われわれの良き権能を掴んでいられるこの宗教はどれだけ神聖となるのだろうか! これからどういった倫理的準則がこうしたキリスト教の慣習を置き換えていくのだろうか?
最初の告白は行われ、それ以上何の償いもなかった。わたしの隠れた、世界を笑わせただろう、幼稚性は宗教の重みによって押し下げられた。上席は強く辱めを受けた。初聖体拝領の先延ばしを望んだだろう。だが、わたしはドルの学び舎を去り、すぐに海軍の任務につくはずだった。大いなる賢明さで彼がわたしの事実そうであったように重要ではない「若年期の作品」の特徴そのものに見出したのは嗜好の本質であった。彼はわたしが本来どうあろうかという秘密を見抜いた最初の人物であった。彼がわたしの将来の情熱を推し当てた。わたしの善を目撃したと考えたものを隠し立てしなかったが、来たる悪も予見した。《遂に——と彼は付言した——あなたの懺悔の時に終わりがきた。だが、あなたは遅れつつも勇気ある告白によって罪を洗われた》。彼は手を挙げて、赦罪の信条を唱えた。この二度目の機会に、あの電撃の腕が天国のしずくだけをわたしの頭へと垂らした。そのしずくを受けるため額を傾けた。感じたものは天使の至福と分かち合うものだった。わたしは祭壇の足元で待っていた母の胸の中へと飛び込んだ。わたしはもう同じ人物として教師や学友たちの目に映らなかった。全く軽い足取りで、頭を高くし、燦然として、悔い改めから凱旋した。
聖木曜日であった次の日、『キリスト教精髄』でその絵を徒にも描こうとした崇高で心揺さぶる儀式への参列が許された。そこではお馴染みの小さな辱めを見つけることも出来ただろう。わたしの花束や服装は同朋のそれより美しくなかった。だがこの日はすべてが神に向けてあり、神のためにあった。わたしは信仰が何であるのか十全に知っている。祭壇における聖体秘蹟内の犠牲者の現存は横の母の存在と同じほど繊細なものだった。聖体が唇の上に置かれたとき、内側が全く啓蒙されたように感じた。敬意のため震え、わたしを占めていた肉体的なものは聖パンを穢してしまう怖れだけだった。
あなたに授くこのパンは 天使の糧として供ずる、 神その人が捏ねし、 神の小麦の花から成りしもの。 (ラシーヌ)
わたしは殉教者の勇ましさをも理解した。この瞬間、拷問台の上だろうが、獅子に囲まれていようが、キリストを告白することができただろう。
数瞬のあいだわたしの魂のなかで世の患難を先んじた幸福を思い出したい。あれらの熱意とこれから描写する激情との比較。無垢と信仰が有する最も甘く最も健全な全てと、情熱が有する最も蠱惑的で最も不吉な全てを三四年の間隔で同じ心が体験するのを見ながら、二つの喜びのうちから選ぶことになる。ひとはどちらで幸福と取り分け休息を探し求めなくてはならぬのかを見ることになる。
初聖体拝領から三週間ののち、ドルの学び舎を去った。この寄宿学校の喜ばしい記憶はわたしの中に留まっている。われわれの幼少期はそれらが美化した場所へそれらの物事を一輪の花が接触した対象へと香りを伝えるように残してゆく。わたしはまだ今日でも初めての学友と初めての教師とが離散したことを考えて心柔らかになる。ルプランス神父はルーアン近郊で聖職禄を受けて僅かばかり生きた。エゴ神父はレンヌ教区に司祭館を得ており、わたしは立派な学長であったポルティエ神父が革命の開始時に亡くなったのを見ている。彼は教養があり、やさしく、心のまっすぐな人だった。この薄暗いロラン本の記憶はこれからつねに愛しく尊ぶべきものとなるだろう。
コンブールでは自らの敬虔さを養う、ひとつの使命を発見した。その活動に倣った。男の農民や女の農民らとともに領主邸の外階段のうえでサン=マロの司教の手により堅信を受けた。その後、十字架が立てられた。土台に固定するあいだ、支えて手伝った。その十字架はまだ残っている。父の亡くなった塔の前で上がっている。三十年のあいだ、十字架は一度たりとも塔の窓から人が顔を出すのを見なかった。もう城の子どもたちから挨拶は受けない。毎春、十字架は徒にも待ち続けている。巣に対し邸宅の人物よりも忠実である、かつてわたしに伴ったツバメたちだけが帰還するのを見る。幸福だった、もし宣教の十字架のもとで生が過ぎていたのなら、もしこの十字架の木々を苔で覆う年月によってのみわたしの髪が白く染められていたのなら!
レンヌへの旅立ちに遅れはなかった。そののちブレストで海軍衛兵の試験を受けるため、レンヌでは勉学を継続し、数学の受講を済ませることになっていた。
ファイヨル氏がレンヌの学び舎で学長を務めていた。ブルターニュのこのジュイイには三人の卓越した教師、第二学年担当のシャトーギロン神父、修辞担当のジェルメ神父、そして物理担当のマルシャン神父がいた。寄宿生と通学者は数多く、授業は強烈だった。近代ではこの学校を出たジョフロワとガングネがサント=バルブとル・プレシで務めを果たしたはずだ。パルニー騎士もまたレンヌで学んでいる。わたしは割り当てられた部屋にあった彼の寝台を譲り受けた。
レンヌはわたしにとってバビロンのようであり、学び舎は世界だった。教師と生徒の衆、建物や庭園や中庭の大きさが規格外であるように映った。それでもわたしは慣れた。学長の聖名祝日には幾日か休みとなった。われわれはわれわれのやり方で見事な二行連による学長のこう言う讃歌を声高に歌った:
おおテルプシコレ、おおポリュムニア、 来たれ、おいで、わたしたちの願いを叶えておくれ; 理性それ自体が貴方を呼んでいる。
ドルで古い友人に対し有していた優越を新たな同朋にも向けた。これが殴打をもたらした。ブルターニュの猿は攻撃的な気性だ。ル・タボルと呼ばれていたベネディクト会庭園の木立へ向かう散策の日に向けて果し状が送られた。茎の先に付けた数学のコンパスを利用するか、挑発行為の重大さによっては、多かれ少なかれ不誠実にもしくは作法に則って、生身での闘いに臨んだ。担保の支払いを求めるか、闘士が手をどのように動かすかを決定する決闘審判団がいた。決闘は二名の参加者のうち一名が降参するまで止まらなかった。学校では友人のジェスリルがまたサン=マロでのように交戦を取り仕切るのを目撃した。彼はのちに革命の最初の犠牲者となる若き紳士であったサン=リヴルとの事件でわたしの補佐役を務めようとした。わたしは敵方に落ちながら、降伏を拒否し、自らの荘厳さのために代償を支払った。処刑台に向かいながらジャン・デマレのように言った: 《わたしは神だけにしか嘆かない》。
この学び舎ではのちに変わった形で有名となる二人の人物と出会った。将軍モローと、地獄の仕掛けの発案者であり今日ではアメリカで司祭となっているリモエランである。ただ一枚だけルシルの肖像画が残っており、この悪意ある細密画は革命による苦しみのさなか画家となったリモエランの手によって描かれた。モローは通学者であり、リモエランは寄宿生だった。同じ時間、同じ州の、同じ小さな町の、同じ寄宿学校で滅多に遭遇することがない特異的な命運であった。同朋たるリモエランがその週の教諭に対し幾度生徒の芸当を見せたか数え上げずにはいられない。
退却したのち、万事が順調であるか確認するため教諭は廊下を巡回するのが習わしであった。それ故教諭はそれぞれの扉に開けられた穴を通して見るのであった。リモエラン、ジェスリル、サン=リヴルとわたしが同じ部屋で床に就いていた。
害獣より成りし皿は極上であった。 [ラ・フォンテーヌ『猿と猫』]
何度も紙で徒に穴を塞いだ。教諭は紙を押し出し、われわれが寝台で飛び跳ね椅子を壊す姿を目の当たりにした。
ある夜、リモエランはわれわれに計画を伝えることなく褥に入り灯火を消すよう急かした。すぐに彼が立ち上がり、扉まで向かい、そして寝台に戻るのが聞こえた。十五分後、そこに爪先立ちで教諭がやって来た。正当なまでにわたしたちは疑わしく、教諭は扉の前に留まり、監視しながらも、灯火を見ることはない
《これは誰の仕業ですか?》と部屋に駆け込みながら叫ぶ。リモエランは笑いで息絶え絶えとなり、ジェスリルは間抜け半分揶揄い半分の調子で鼻声を出す: 《それで教諭殿は何をしておいでに?》。ここでサン=リヴルとわたしがリモエランのように笑いだし、毛布の下に身を隠す。
彼らはわれわれから何も引き出すことが出来なかった。われわれは勇敢だった。四人全員が地下倉に閉じ込められた。サン=リヴルは飼育場へと通じる扉の下の土を掘った。この土竜塚に頭を入れ込むと、豚が走り寄って来て脳みそを食べようとした。ジェスリルは学び舎の貯蔵庫に滑り込み、樽から葡萄酒を流しだした。リモエランは壁を壊し、新ペリン・ダンダンたるわたしは通気孔へと登って、長広舌で道のごろつきを掻き立てた。学び舎の教諭に対しこの悪童の悪戯を働く地獄の仕掛けの手酷い発案者は、自らに続いてチャールズ一世の死の宣告に署名した他の王殺しの顔を墨で塗りたくる若きクロムウェルを思い出させる。
レンヌの学び舎における教育はとても宗教的であったものの、熱意は冷めていった。気の散る機会が多数の教員と学友により掛け合わされていった。わたしは言語学習において進展をみせた。数学が得意となり、常に確とした数学への嗜好を持った。わたしは優れた海軍将校か工兵将校にでもなっていただろう。総じて、手軽な器量とともに生まれ出た。喜ばしい物事に対するように質実な物事には敏感であり、散文へと至る前に詩に取り組み始めた。芸術はわたしを夢中にさせた。音楽と建築を情熱的に愛した。全てに飽きてしまいがちだが、最も細かい部分に通じていた。鉄壁の忍耐を授かり、自分を忙しなくする物に疲弊しながらも、執拗さは嫌悪感より強固であった。成し遂げるために苦労する価値のある問題であれば投げ出すことなどなかった。そのように終わりの一日が始まりの一日ほど熱意に満ちた十五年、二十年の生の月日のなかで追い求めたものがある。
この知性の靭やかさは副次的なものにも認められた。チェスに長けており、ビリヤードが巧みであり、狩猟や武器の取り扱いにも優れていた。デッサンはまずまずだった。わたしの声を気遣ってくれていたのなら、上手に歌ってもいただろう。こうした全てが、兵士と旅人の生を送るわたしの教育の様式に組み込まれ、自らの衒学さを感じさせなくしたと同時に、唖然としたり自惚れた体でもいさせず、不躾でもなく、至極厳粛な文人の薄汚い慣習なども持たず、尊大さや自信など尚更なく、新たな作家たちの妬みと空威張りの虚栄とも無縁に見せた。
レンヌの学び舎では二年間を過ごした。ジェスリルはわたしの十八ヶ月前に去っていた。彼は海軍に入隊した。この二年の過程で三番目の姉のジュリーが結婚した。彼女はコンデの連隊長ファルシー伯爵と婚姻し、年長の姉二人マリニー夫人とケブリアック夫人がすでに住んでいたフジェールに夫とともに定住した。ジュリーの婚礼はコンブールで執り行われ、わたしは式に参列した。処刑台にて怖じ気のない態度で際立ったトロンジョリ[トロジョリフ]伯爵夫人とはそこで出会った。ラ・ルエリ侯爵の従兄弟であり親しい友人であった彼女は彼の陰謀に係わった。美はまだ家族のなかでしか見たことのないものだった。わたしは他所の女の顔を眺めながら困惑したままでいた。生の一歩一歩が新たな視点を切り開いた。わたしの方へと来る情熱の、遠くかつ誘惑的な声を聞いた。聞き知れぬ旋律に魅了されながらセイレーンの前に駆け込んだ。エレウシスの大祭司のように種々の薫香をそれぞれの神に有することとなった。けれども、その薫香を燃やしながらわたしが歌っていた賛歌はハイエロファント[エレウシスの秘儀の大祭司]の詩句のように「香料」[オルペウス教の賛美歌の名前]と呼ばれうるものだったのだろうか?
ジュリーの結婚式のあと、ブレストへと旅立った。レンヌの大きな学び舎を去りながら、ドルの小さな学び舎を離れるときに経験した後悔は全く感じなかった。われわれを全ての虜にする無邪気さも既に失われたかも知れなかった。時が開きだしていた。新たな身分の指南役として母方の叔父である艦隊司令官、子息の一人がボナパルトの軍隊において傑出した砲兵の将校でありわたしの姉ファルシー伯爵夫人の一人娘と結婚した、ラヴネル・ド・ボワステイユル伯爵がついた。
ブレストへと到着したものの、候補生の免状は見当たらなかった。どうした事故が遅延を生じさせたのかは分からない。「志願者」と呼ばれる地位に留まり、それゆえ正規の教育から逃れた。叔父はシアム通りの寄宿舎にある候補生向けの食卓までわたしを案内したのち、海軍司令官エクトール伯爵と面会させた。
初めて放任されたわたしは、将来の同朋たちと付きそう代わりに、自らの孤独な本能のなかに引きこもった。日常の交流はフェンシングと素描、そして数学の教師たちに限定されていった。
多くの浜で出会わなくてはならなかった海がブレストではアルモリカ半島の極地を浸していた。突き出た岬のさきにあったのは限りのない大海と見知らぬ世界だけであった。想像力はそうした空間のなかで戯れた。しばしば、ルクブランスの埠頭に沿って横たわる幾つかの帆柱に座しながら、群衆の動きを見つめていた。大工、船員、軍人、税関吏、囚人らがわたしの前を過ぎてはまた通り過ぎてゆくのであった。旅人が下船しては乗船し、水先案内人が進行の指示をし、大工は木材を四角に切り、縄職人がケーブルを繰り出し、太い煙と乾留液の健康的な香りを出す汽缶のしたで見習い水夫が火を放っていた。商品の包みや食料の袋、武器運搬車を運び出し、運び入れ、海上から倉庫へ、そして倉庫から海上へと転がし入れていた。ここでは荷車が積荷を受けとるため水の中を後ずさりしていた。起重機が石を降ろし、清掃船が堆積土砂を掘るなか、そこでは巻き上げ装置が重荷を運び去っていた。駐屯地は信号を繰り返し送り、ボートは行き来し、船が波止場から離れては戻ってきていた。
わたしの精神は社会や善悪にかんする模糊としたアイディアで満たされていた。どのような悲しさがわたしを捉えていたかは分からない。座っていた帆柱から立ち去った。港に流れるパンフェル川に沿って上っていった。港が見えなくなる湾曲部に辿り着いていた。そこでは泥炭地の谷以外何も見ずにいたものの、海と人々の声とが混交したざわめきがまだ聞こえ、わたしは小さい川の横で横たわった。ときどき水が流れるのを見ながら、ときおり海のカラスが飛翔するのを両目で追いながら、自分のまわりの沈黙を楽しみながら、もしくは鑿を打つ槌の音に耳を貸しながら、最も深き白昼夢へと落ちていった。この白昼夢の只中で、風が帆走しようとする船の砲声を運んでくれば、わたしは震え上がり、涙が目を濡らしていた。
ある日、港の外側の、海側の極地まで散策に向かった。暑い日だった。海岸で体を伸ばしたすえ、眠りについた。突然、物凄い騒音で起こされた。わたしはセクストゥス・ポンペイウスに対する勝利を収めたあとシチリアで停泊している三段櫂船を見たアウグストゥスのように目を開く。大砲の爆轟が続いた。停泊地は船舶で犇めいていた。フランスの大艦隊が平和条約署名ののち帰還した。帆のもとで船は操縦され、灯火に照り、旗を掲げ、船尾、船首、船べりを見せ、航路の真ん中に錨を投げながら停止するか、波の上で揺らめき続けた。他の何事も人間の精神に関しより高いアイディアを与えることはなかった。この瞬間、人はあの方が海に向かって発した物事から幾らかを拝借しているように映った。《此を越べからず。Non procedes amplius
》。
ブレスト中が駆けてきた。複数のボートが船隊から離れて防波堤に到達する。太陽で顔を焦がしたボート一杯の将校たちは、ひとが別の半球から運ぶ異国の空気と、国の旗の誇りを取り戻したばかりの人物としてわたしが言い表すことのできない陽気さや矜持、度胸を有していた。この海兵隊、大いに称賛に値する、とても高名な、シュフランやラモット=ピケ、デュ・クエディック、デスタンの相棒たちは敵の砲撃から逃げて来ており、今ではフランス人たちのもとへと下ろうとしていた!
ひとりの将校が同朋のもとを離れ、わたしの首に飛びかかったとき、わたしは勇敢な軍隊が行進するのをみていた。それはジェスリルだった。わたしよりも成長したようだったが、剣による一撃を胸に受け、弱々しく窶れていた。彼は、同じ日の夜、家族のもとへと向かうためブレストから去っていった。のちに彼を見たのは一度だけであり、それは勇ましい死を遂げる少し前のことであった。これはこの先何らかの機会において語ることになる。ジェスリルの突然の登場と出立はわたしに生の方向転換を決断させた。この若き人物がわたしの命運に絶対の支配力を有していたことは既に書いてある。
これから、わたしの人格が如何に形成されたか、わたしのアイディアがどのような転回をみせたか、ひとつの悪と呼ぶことのできるわたしの才能が示した初めての症状は何だったのか、その才能とは何であったのか、類まれであったのか、月並みであったのか、言い表すための別の言葉をわたし自身失しているがために与える名前に値したのかしなかったかを見る。もっと他のひとびとに似ていれば、わたしはより幸福だっただろう。わたしから精神を取り上げることなしに、わたしの才能と呼ぶものを殺し果せたものがいたのなら、彼はわたしを友人扱いしていただろう。
ボワステイユル伯爵がわたしをエクトール氏のもとへと連れて行ったとき、若い海員と古い海員とが彼らの故郷を語り、駆け巡った国々にかんし閑談するのが聞こえた。ひとりはインドから来ており、ひとりはアメリカからだった。前者は世界中を航行するため出港しなければならず、後者は地中海の停泊地に復帰しギリシャの海岸を尋ねる予定だった。わたしの叔父は人混みのなかにいるラ・ペルーズ、その死が荒天の隠し事である新[ジェームズ・]クックを指し示した。わたしは一言も発さずに全てを聞き、全てを見ていた。だが続く夜にもはや眠りはなかった。想像のなかで格闘するか未知の土地を見つけながら過ごした。
いずれしろ、両親のもとへと帰るジェスリルを見ながら、わたし自身両親のもとに戻ることを阻むものは何もないと考えた。独立心が任務のいかなる類からもわたしを引き離すことがなければ、海軍の任務を大いに愛していただろう。わたし自身のなかに従うことへの不可能性がある。旅がわたしを誘惑したが、意志に従い、一人で行わなければ好まないと感じた。ついにわたしの非一貫性にかんする初めての証拠を与えながら、叔父ラヴネルに通達せず、両親に手紙も送らず、誰の許可も求めず、候補生の免状も待たず、わたしが雲のように落ちてゆく場所コンブールに向けてある朝出発した。
今日でもまだ驚かされるのは、父が呼び起こしていた恐怖のなかで敢えてそのような決断を下したことであり、これまた驚きなのは、わたしがどのように受け入れられたかである。わたしはこの上なく鋭い怒りからくる激情を予期しなくてはならなかったが、穏やかに歓迎された。父は首をふり満足し、こう言うようだった: 《こいつは、気ままでいいな!》。母は唸りながらわたしを心いっぱい抱きしめ、わたしのルシルは喜びのため恍惚としていた。