墓の彼方からの回想 フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン
雲のごとく... 舟のごとく... 影のごとく (ヨブ)
第一部
第一冊
四年前聖地から戻ったわたしはソーとシャトネに近いオルネーの集落あたりで、木深い丘陵に隠れている庭師用の住宅を購入した。この住宅の起伏する砂っぽい土地は、果てに渓谷や栗の切り株を見つけることのできる野生の果樹園そのものだった。わたしには土地の細長さが長い望みを囲い込むのにふさわしいと思えた—— spatio brevi spem longam reseces
[ときは短し、切り取れ、長き願いを]。植えつけた木々は成長しても、まだとても小さく、太陽との間にわたしが立てば影を与えられるほどである。幼少のみぎりを見守ったように、いつかはこの影の代わりとして彼らがわたしの老年を支えてくれるだろう。これまで彷徨った様々な風土のうちから選んだそれらは、かつての旅を思い出させ、心の奥に別の幻影を花開かせる。
もしまたブルボンが王位に就くとして、忠信の報いにわたしが請うのは周囲の森を遺産とするために十分金持ちにしてほしいということだけだった。野望が来たのだ。散策を数アルパン広げたい。遍歴の騎士でありながら一箇所に留まる修道士の趣きを今は持っている。この隠れ家に退いてから囲いの外に三回足を踏みだしたとも思えない。アカマツ、カラマツ、モミ、ヒマラヤスギといったわたしの木々が有望であり続けるならラ・ヴァレ=オ=ルーは真の修道院になるだろう。1694年2月20日、ヴォルテールがシャトネで生まれたとき、『キリスト教精髄』の著者が1807年に退くことになる丘の斜面は一体どのような様相をみせていたのだろうか?
この場所は好ましい。父の土地を置き換えてくれた。わたしは夢想と徹夜とで購った。アタラの広大な砂漠が小さなオルネー砂漠の負うところであり、アメリカ人開拓者のようにフロリダの原住民を搾取してこの逃げ場所を作り出したわけではない。わたしは木々に魅了された。彼らに悲歌やソネット、頌歌を送った。彼らのうちの一本ですらわたし自らが手当てしてやらなかったものはなく、根もとについた蠕虫や葉っぱに付着した芋虫から自由にしてやらなかったものはない。彼ら全員の名前を覚えている、まるで我が子のように。これがわたしの家族、他にない家族であり、わたしは彼らのそばで死ぬことを望む。
ここで『殉教者』と『アベンセラヘス』、『旅行記』、『モーセ』を書いた。そして今この秋の夕暮れに何をするというのだろう? この1811年10月4日、わたしの聖名祝日でありエルサレム入城の記念日、この日がわたしに人生の話を始めさせようとする。足を踏みつけるがために今日フランスに世界帝国を与えた男、その男、その天才をわたしが愛し、その独裁をわたしが嫌悪する、その男は、ある寂しさから圧政を持ってわたしを包み入れた。いまを破壊したとしても、過去は彼に立ち向かう、彼の名誉で満ちたすべてのなかで、わたしは自由なのだ。
わたしの感情の大部分は魂の深部に息づいていたか、作品のなかで架空の人物に充てがわれ姿を見せていただけだった。こうしたキメラを追求しなかった後悔が未だにつづく今日、よき日々の趣向を遡りたいと思う。この回想録は記憶の輝きへ至る死の神殿となるだろう。
だから始めることにしよう、そして、まずは家族のことから話そう。それが肝心となるのは、立場に則った父の性格がわたしの思想的本質に多大に影響しのちの教育方針を決定づけたためだ。
わたしは紳士として生まれた。思うに、わたしはこの揺りかごの偶然を活用して、最期の時がきこえる貴族の、自由へのより堅き愛情を保った。貴族はつぎの三つの時代を経る—— 優越、特権、そして虚栄の時代である。一番目から出現して、二番目で退行し、三番目で消え失せる。
わたしの家族について求めるがままに問い質したいのであれば、モレリの辞書や、ダルジェントレ、ロビノー師、もしくはモリス師が執筆したブルターニュの歴史に関する書物、デュ・パズ神父の残した『ブルターニュにおける数ある絢爛な邸宅の系譜学的歴史』、トゥーサン・ド・サン=リュック、ル・ボルニュ、そしてアンセルメ神父の『王冠大将校の歴史』を繙くとよい。
やがてルミルモンへ移ることになる姉ルシルがまずラルジャンティエール参事会の律修修女として認可された際に、わたしの血統はシェランの手によって確かめられたのだった。ルイ十六世に謁見し、マルタ騎士団へと属し、そして最後には、わたしの兄が同じく不運なルイ十六世に拝謁したことでも確かめられている。
もともとBrien
であったわたしの性は仏語正書法の侵入によりBriant
、やがてはBriand
と改められた。ギヨーム・ル・ブルトンはそれをCastrum-Briani
と呼んだ。フランスにはただのひとつとして表記のぶれない名字がない。Du Guesclin
の正しい綴りは一体何なんだろうか?
十一世紀初頭Brien
家はブルターニュの主要な城にその名を伝え、やがて城はChateaubriand
[シャトーブリアン]の領土の中心となった。シャトーブリアンの紋章は最初のころ松かさと家訓——わたしは黄金を蒔く——から成っていた。シャトーブリアン家のジョフロワ男爵は聖ルイとともに聖地を旅した。マンスーラの戦いにて捕虜に取られたあと帰還したジョフロワ男爵をみて、彼の妻シビルは再会の喜びと驚きのあまり亡くなった。男爵の尽力をかんがみた聖ルイは古い紋章のかわりに黄金のフルール・ド・リスが散りばめられたギュールズの盾を彼と彼の子孫へ認めることになる—— Cui et ejus hœredibus
[彼と彼の子孫に]——小修道院の記録集が証言する——sanctus Ludovicus tum Francorum rex, propter ejus probitatem in armis, flores lilii auri, loco pomorum pini auri, contulit
[聖ルイつまりフランス王は彼の紋章への誠実さのため黄金の松かさの代わりに黄金のフルール・ド・リスを授けた]。
シャトーブリアン家はもとの家系から三つに枝を分けた。第一にバロン・ド・シャトーブリアン、ほかの二つの源流であり、西暦1000年に端を発する、Brien
の息子でアラン三世の孫のティエルンというブルターニュの伯爵もしくは指導者であった人物に連なる系譜。第二にセニュール・デ・ロシュ・バリトーもしくはセニュール・デュ・リオン・ダンジェと称される人々、第三にシレ・ド・ボーフォールの称号をもつ者たちである。
シレ・ド・ボーフォールの系図がルネ婦人の代で途絶えることになったとき、庶流のクリストフ二世へとモルビアンにあるゲランドの土地が分配された。この時代から十七世紀の半ばにかけ貴族階級では大きな混乱が広がり、称号や名前の不正使用が横行していた。ルイ十四世は臣民の権利の回復を図るため調査を指示する。クリストフは古い出自を理由に高貴さが認められ、レンヌに設立されたブルターニュの貴族階級の編成を図る会議所の判断により、称号と紋章の所有を維持した。この判決は1669年9月16日に下された。以下が判決文である:
《国王(ルイ十四世)により設立されたブルターニュの貴族階級の編成を図る会議所が1669年9月16日に下した判断: 国王総代理官とゲランド領主クリストフ・ド・シャトーブリアン氏の間にて: 前記したクリストフが古く高貴な出自であると宣言し、騎士の称号を所持させた上で、無数のフルール・ド・リスが散りばめられたギュールズの盾を紋章として身につける権利に浴させるが、これは正当な肩書や出自等々によって成された開示によるものである。署名マレスコ》
この判決が明確にしたのは、ゲランドのクリストフ・ド・シャトーブリアンがシレ・ド・ボーフォールから来る直接の子孫であることだった。シレ・ド・ボーフォールは歴史的文書により第一位のバロン・ド・シャトーブリアンと結び付けられた。ヴィルヌーヴやデュ・プレシ、コンブールのシャトーブリアン家はゲランドの分家であることが、アモーリの末裔で、クリストフの息子であるミシェルの兄弟により証明されて、1669年9月16日、貴族階級の編成を図る判決文のうちで支持された。
わたしがルイ十六世に謁見したあと、兄は、非司牧聖職禄と呼ばれる権益のいくらかを齎すことで、弟としてのわたしの財産を増大させようと考えた。わたしは俗人かつ兵士であり、この目的を達する方法として唯一実行可能であったのは、マルタ騎士団に加入することだった。兄はマルタに証拠を送付し、その後すぐに、ポワチエで開かれたアキテーヌ大小修道院の参事会に、わたしの名のもとで要望を提出して、速やかな決議のための委員を任命するよう迫った。ポントワ氏は当時の修道院でマルタ騎士団のアーキビストと副尚書、そして系譜学者を務めていた。
参事会長はアキテーヌの執行官兼大小修道院長のルイ=ジョゼフ・デ・エスコテであり、彼にはフレスロン執行官、ラ・ローランシ騎士、ミュラ騎士、ランジャメ騎士、ラ・ブルドネ=モンリュック騎士、デュ・ブエチエ騎士が仕えていた。そして要望は1789年9月9日、10日、11日に受け入れられた。記念碑を承認した言葉によると、わたしにはただのひとつの称号より、所望の恩寵がふさわしく、最も重い配慮によって、要求を満たすだけの敬意が払われるのだった。
そして、これらが執り行われたのはすべてバスティーユ襲撃のあと、1789年10月6日の、つまりは王族がパリへと連行されるシーンの前夜であった! さらには1789年この年の8月7日の会議のなかで国民議会が貴族の称号を廃止してしまった! しかしどのようにして騎士と、わたしの証拠を調べる調査官たちは、ただのひとつの称号より所望の恩寵がふさわしいなどと見つけることができたのだろうか、わたしは単なる受勲なしの恩と運を欠いた弱々しい無名の歩兵少尉であったというのに?
わたしの兄の長兄(この文は、1831年のいま、1811年に物した最初のテクストへ書き加えている)ルイ・ド・シャトーブリアン伯爵は、オルグランド嬢と結婚し、そこで五人の娘と、ジョフロワという名の男児をもうけた。ルイの弟で、かつ、マルゼルブ氏の曾孫であり名付け子の、マルゼルブ氏に衝撃的なまで似ているクリスチャンは1823年のスペインにて近衛竜騎兵隊長を務めたことで勲章を受けている。彼はローマでイエズス会士となった。イエズス会士は地上から姿を消し去るほどに孤独を注いでいる。クリスチャンは近ごろトリノ近郊のキエーリで死ぬこととなった。老いて病に冒されている、わたしが先んずるべきだった。だがクリスチャンの徳は、まだ多くの過ちを嘆かねばならぬわたしより、先に天へと呼ばれた。
家族からの遺産を分割するなかで、クリスチャンはマルゼルブの土地を、ルイはコンブールの土地を譲り受けた。公正な分配に与しなかったクリスチャンは、俗世を辞することで、自身に属してはいない所有物を身から剥ぎ取り、長兄へ返すことを望んだ。
父兄の陶酔を受け継いだのだとして、羊皮紙文書の眺めをもとにブルターニュ公爵の末裔、つまりアラン三世の孫のティエルンとの血縁を有する人物だと自認するかは、わたしの一存による。
前述のシャトーブリアン家は、ジョフロワ四世がアンジュー伯爵とヘンリー一世王女マティルダの孫娘にあたるアニェス・ド・ラヴァルと再婚し、イングランド国王の未亡人でルイ・ル・グロの孫娘のマルゲリト・ド・リュジニャンが十二代目男爵ジェフロワ五世と結婚したことで、二度に渡ってイングランド君主の血を混ぜたことになる。スペイン王族のなかには、九代目男爵の弟で、アラゴン国王アルフォンソの娘ジャンヌと結ばれたBrien
がいる。フランスの偉大な一族との関連において信認すべき事柄だが、エドゥアール・ド・ロアンがシャトーブリアン家マルゲリトと婚姻し、またクロイがシャトーブリアン家シャルロットと結婚してもいる。三十人の戦いの勝利者タンテニアックや、デュ・ゲクラン司令官は、三つの系譜に属するわれわれと同盟を結んでいたと思われる。ベルトランの兄弟の孫娘ティフェン・デュ・ゲクランは従兄弟で相続人のシャトーブリアン家Brien
へとデュ・プレシ・ベルトランの土地を譲渡した。シャトーブリアン家のいくつかは条約のなかでフランス王族とクリソン、そしてヴィトレ男爵の平和を保証した。ブルターニュ公爵は巡回裁判の議事録をシャトーブリアン家に送っている。シャトーブリアンは王冠大将校となり、ナントの宮廷で名を馳せて、イングランド人の脅威に対し自らの州の安全を維持するよう任命を受ける。Brien
一世はヘイスティングズの戦いに参じているが、彼はパンティエーヴル伯爵ユードンの息子だった。ギー・ド・シャトーブリアンは、1309年、ブルターニュ公アルテュールが教皇への使節として彼の息子に同行するよう充てがった領主のひとりである。
手短な概要を記そうとしたにすぎないこれらは仕上げようとすれば書き終えることがない。わたしほどに過去の苦難が容易いものでなかったはずの二人の甥を慮りようやく結実させたノートがここで省略したものを補ってくれるだろう。しかしながら今日の人々は一線を越え出ようとしている。自分が労働者の出であることを吹聴し、土に触れた人物の子息であることを誇るようになってきた。そうした宣言は、自らを哲学的だと称することほどに、大した問題なのだろうか? 力を持った側に追従しているだけではないだろうか? 特権や畝を持たない今の侯爵、伯爵、男爵の、四分の三が飢死しかけ、互いを侮蔑しあい、互いを認めようとはせず、生まれについて相互に言い争っている。名を否定された、もしくは、財産目録の利益しか得られていない貴族が恐怖を呼び覚ませるのだろうか? いずれにせよ、支配的だった父の情熱、わたしが若かったころのドラマの核を形成した情熱を説明するため、幼児的な朗読へと降りてゆかなければならなかったことを許していただきたい。わたしにとって、古い社会や新しい社会は自慢や誹謗の対象ではない。わたしがまずシャトーブリアン騎士もしくは子爵であるならば、その次にわたしはフランソワ・ド・シャトーブリアンなのである。わたしは称号より名前を取る。
わたしの父上は、中世の大地主のように歓びをもって神を天上の紳士だと呼ばれ、ニコデモ(福音書のニコデモ)を聖なる紳士だと称されただろう。いま、わたしの祖を過ぎゆき、ゲランド封建領主でバロン・ド・シャトーブリアンの直系クリストフを通って、わたしフランソワ、家臣やラ・ヴァレ=オ=ルーの土地代を持たぬ領主へと至る。
シャトーブリアンの系譜を遡ると、三つのうち始めの二つが断絶し、三つ目のシレ・ド・ボーフォールが小さな分岐(ゲランドのシャトーブリアン)で長らえながら地域法の不可避な効力——ブルターニュの慣習にもとづき、貴族の長兄は遺産の三分の二を相続し、弟たちは三分の一を分配し合う——によって衰えたことが見て取れる。かぎられた世襲財産の解体は後者の婚姻によっても一段と早まる。三分の二の配分は譲り受けた三分の一の財産にも適用されるため庶流の庶流はすぐに鳩や兎、鴨池、猟犬の分配へと行き着くが、彼らはまだ高位な騎士であり、鳩舎の、蟇の沼の、兎の巣穴の、有力な領主であるのだった。古く高貴な家系のなかに庶流の数をみる、彼らは二三世代追えば、鋤鍬に沈み、労働者階級へと吸い込まれて、そうなったとは知らぬうちに、消えてしまう。
われわれの一族の家名および紋章の長は十八世紀初頭にかけてアレクシ・ド・シャトーブリアン、ゲランド領主であり、アモーリを兄弟にもつミシェルの息子が務めた。ミシェルは、上述した判決のとおりシレ・ド・ボーフォールとバロン・ド・シャトーブリアンの血統が認められたあのクリストフの息子である。ゲランド領主アレクシは寡夫であり、故意に酒浸り、日々を呑んで過ごし、女中と不埒に生き、家の最上の肩書をバターの瓶を覆うために使っていた。
同時代には、この家名および紋章の長のいとこ、ミシェルの弟アモーリの子息であるフランソワがいた。1683年2月19日生まれのフランソワはレ・トゥーシュとラ・ヴィルヌーヴの僅かな領地を有していた。彼は1713年8月27日にランジェグ嬢ペトロニーユ=クロード・ラムールと婚姻し、フランソワ=アンリと、ルネ(わたしの父)、ル・プレシ領主ピエール、そしてル・パルク領主ジョゼフの四人の息子をもうけた。わたしの祖父フランソワは1729年3月28日に死去した。幼少のわたしが見覚えた祖母は、まだ年月の影のなかでほほえみ、美しい面差しを保っていた。祖父の死に際したとき、彼女はディナン近郊ラ・ヴィルヌーヴの領主邸に住んでいた。祖母の全財産は収益において五千リーブルを超えず、長兄がその三分の二、3333リーブルを所有した。残る1666リーブルの収益は三人の弟へと渡り、長兄はその一部においても儲けを得た。
この難事に拍車をかけたのは、祖母の計画と食い違う彼らの性格であった。ラ・ヴィルヌーヴの領地を莫大な遺産として譲り受けた長兄フランソワ=アンリは結婚することを拒み、司祭となった。自らの名で収益を得て弟たちを支えるのではなく、自尊心と無頓着さゆえ彼は何も求めなかった。田舎の司祭館に骨を埋め、ひきつづいてサン=マロ教区内のサン=ロヌとメルドリニャックの主任司祭となった。詩への情熱を有しており、わたしは幾度も詩句を拝見した。高貴なるラブレーと種を同じくする喜びのおおき性格をもったこのキリスト教司祭は司祭館のミューズへ身を捧げ、好奇心を掻き立てていた。彼は所有するすべてを差し出し、負債を抱えたまま亡くなった。
父の四番目の兄弟ジョゼフはパリへと赴き、図書館に引きこもった。ジョセフには毎年416リーブルの僅かな配分が届けられた。書物に囲まれて人知れず生き、歴史研究に没頭した。彼は短くあった人生のなかで元日を迎えるたびに、生存を伝える唯一の記しを自分の母へと送った。特異的な運命! これが二人の叔父、一方は学者と、そして他方は詩人である。わたしの長兄は心地よく詩作を行った。姉のひとりファルシー夫人は真の詩才を有していた。もうひとりの姉、伯爵夫人であり律修修女のルシルは、幾枚かの見事に書かれたページにより、名前を知られてよかったはずだ。わたしに関して言えば、無数の紙を書き汚している。わたしの兄は処刑台に滅し、わたしの二人の姉は牢獄のなかで苦しんだあと痛みのあまり辞世した。ふたりの叔父は棺の板四枚の代金を支払うのに十分なものを残さなかった。喜びと悲しみを文学は引き起こす、たとえ救貧院で死ぬことになろうとも、神のご加護よ、絶望しはしない。
祖母は長兄と末弟のため消費し切り、他のふたり、わたしの父ルネと、叔父ピエールに何ひとつしてあげることが出来なかった。家訓によると黄金を蒔いたこの家族は、自分たちが設立し祖先を埋葬した裕福な修道院を領主邸から眺めていた。一族はブルターニュに九つある領地のひとつを所有し、三部会の議長を務めた。領主間の条約に署名しクリソンの警衛に当たったが、名を継ぐものに少尉の肩書を残すほどの働きはしなかった。
この貧しいブルターニュ貴族に残された方策のひとつが、王立海軍を利用してわたしの父に益を齎すことであった。だがそのためにはまずブレストへと向かわなければならず、そこに住み、指導官に支払って、制服、武器、書物、計算用具を購入しなければならなかった。一体どのようにすればそのような支出を工面できただろうか? 海軍省が求める免状は送付を要請するための護衛が不足したことから到着しておらず、ヴィルヌーヴの女城主は悲嘆から倒れてしまった。
だからこそ父はわたしの知る確とした人物としての最初の兆候を示し始めた。年の頃は十五であり、母親の心労に気づいた彼は彼女が臥す寝台に近づき言った—— 《これ以上、母上の負担になりたくありません》。この発言にわたしの祖母は落涙した(わたしはこのシーンを回顧する父の話を繰り返し聞いた)。《ルネよ——と彼女は返答した——、あなたは何を望んでいるというの? 自分の土地を耕しなさい —— それでは食べていけません。出ていかせてください。 —— いいわ——と母上が言う——、神があなたに向かわせたいと思し召す場所に向かいなさい》。彼女はすすり泣きしながら息子を抱きしめた。この夜、父は母親の農場を去り、親類のひとりがサン=マロ居住のための推薦書を執筆してくれるディナンへと辿りついた。孤児の冒険家はボランティアとして武装スクーナーに乗船し、数日後には出港することになる。
小さなサン=マロの共和国はそのときフランス国旗の誉れだけを海上で支えていた。スクーナーはロシア人によってグダニスクで包囲されたスタニスラスを援護するためフルーリー枢機卿が送った船隊に加わった。父は大陸の土を踏み、1734年5月29日、ブレアンのブルターニュ人プレロ伯爵率いるフランス人千五百名が、ミュンヘンが指揮するモスクワ人四千名と交戦した記念すべき戦闘に参じている。外交官であり戦士で詩人のブレアンは陣没し、父は二度負傷した。そのままフランスへと戻り、再び乗船した。スペイン沿岸で船は難破し、ガリシアでは盗賊が襲いかかり略奪された。船上でバイヨンヌに針路を取り、ふたたび生家に現れた。秩序立った父の勇気と精神が彼の名を広めていた。島々へと赴き、植民地で儲け、一族の新しい財産の礎を築いた。
祖母は息子ルネにデュ・プレシのシャトーブリアン氏であるピエールの後見を委ねたが、ピエールの子息アルマン・ド・シャトーブリアンは、1809年の聖金曜日、ボナパルトの命により射殺された。アルマンは君主制のため犠牲になった最後のフランス紳士のひとりであった。わたしの父は弟の命運を見守ったが、ピエールは苦しみ多き習慣ゆえに、生涯保ち続けることになる厳粛な性格を有していた。Non ignara mali
[苦しみを知らぬことはない(、予は不幸人を救うことを学んでいる)]、これが正しいとは限らない—— 不幸は優しさと共に厳しさを抱えている。
シャトーブリアン氏は長身で細身だった。鷲鼻で、薄い唇は青白く、青緑色もしくは緑青色の沈んだ小さな眼をして、それらはライオンか古い蛮族のようであった。このような容姿をほかで見かけたことがない—— 怒りがそこに募ったときには、輝く瞳孔が撃ち放たれる弾丸のようにみえた。
名前への情熱だけが父を占めていた。齢を重ねるごとに深くなる悲しみと、憤りだけが顔を出す沈黙に、日々浸っていた。一族にかつての華やかさを取りもどす望みをもった吝嗇家であり、ブルターニュ三部会の紳士にたいし驕り高ぶり、コンブールの家臣には厳しく当たり、寡黙で、専制的で、家庭内では脅迫的である、そうした父を見て感じ取っていたのは恐怖であった。もしも革命まで生き延び若くあり続けたなら、重要な役割を果たしていたか、城の中で殺されていただろう。確かに父は才覚を有していた、政権や軍隊の長として並外れていたに違いない。
結婚を考えたのはアメリカから帰国する最中であった。1718年9月23日生まれの父は、ベデ伯爵でありラ・ブエタルデ領主のメシア・アンジュ=アニバルを父に持つ1726年4月7日生まれのアポリンヌ=ジャンヌ=スザンヌ・ド・ベデと、1753年7月3日、35歳で結婚する。父は彼女とともに、自らが生まれ出てきた地平線を自宅からひと目見られるようにと、二人の生まれからそれぞれ七八リュー離れているサン=マロに定住した。わたしの母方の祖母でベデ嬢のマリ=アンヌ・ド・ラヴネル・ド・ボワステイユルは1698年10月16日にレンヌで生まれ、マントノン夫人の生前最後の月日にはサン=シールで育てられて、その教育は娘たちにまで及ぶものとなった。
溢れんばかりの知恵と膨大な想像力を授けられた母はフェヌロン、ラシーヌ、セヴィニエ夫人を講読することで人柄を形成し、ルイ十四世の宮廷における逸話でもって自らを養った。彼女は『キュロス大王』を全文諳んじていた。大きく特徴をもったアポリンヌ・ド・ベデは黒髪で、小さく、そして醜かった。マナーの優雅さと活き活きとした気質は父の厳格さや落ち着きとは対照的であった。孤独とおなじほど社交界を愛し、不動で冷淡であるほどに意欲的で活発であった彼女は、夫のそれに反しない嗜好を何ひとつ持たなかった。彼女の感じた不一致は、それまでの軽快な明るさを憂鬱へと変えてしまい、口を開きたいときにも寡黙にした、彼女はそれを騒々しい悲しみのようなもので補い、ため息を交じらせるのだったが、そうしたことはただ父の静かな悲しみを途切らせるだけであった。敬虔さのなかで、母は天使だった。
母はほかの年長者と同じように揺りかごのなかで亡くなるジョフロワと名付けられた長子をサン=マロで出産した。この息子には数ヶ月のみ生きたほかの息子と二人の娘が続いた。
この四人は血が脳に溢れ出したために消えていった。ようやく母はジャン=バティストと呼ばれる三男を誕生させるが、彼はやがてマルゼルブ氏の孫の夫となる。ジャン=バティストのあとは四人の娘が出生した。マリ=アンヌ、ベニーニュ、ジュリー、ルシルの四人全員が稀な美しさを有し、年長の姉二人だけが革命の動乱を生き延びた。他の二人が逝ってからもその美しさと真面目な軽薄さは残っている。わたしは十人の子の最後だった。おそらく四人の姉の存在は、二人目の男児を授かることで自身の名を確かなものにしようとした父の望みに負っている。わたしは抵抗した、生を厭っていた。
ここにわたしの洗礼登録抄本を示す:
《1768年度サン=マロ・コミューン住民登録簿からの抄録
《フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、ルネ・ド・シャトーブリアンとその妻ポリーヌ=ジャンヌ=スザンヌ・ド・ベデの子息、1768年9月4日生れ、翌日にサン=マロの司教総代理われわれピエール=アンリ・ヌエルにより洗礼。兄である代父ジャン=バティスト・ド・シャトーブリアン、代母フランソワ=ジェルトリュード・コンタッドらが父とともに署名。登録簿には次の署名がなされている: コンタッド・ド・プルエル、ジャン=バティスト・ド・シャトーブリアン、ブリニョン・ド・シャトーブリアン、ド・シャトーブリアン、並びにヌエル司教総代理》
わたしの著作には誤りが見て取れる: わたしは10月4日生れで、9月4日生れではない。わたしの名前はフランソワ・ルネであって、フランソワ・オーギュストではない。
当時両親が住んだ家は、ユダヤ人通りと呼ばれるサン=マロの薄暗く狭い通りに位置する。この家は現在オーベルジュに改装されてある。母が出産した部屋では町の壁の荒んだ部分を見下ろし、岩礁で途切れとぎれになりながら視界の端まで続く海を部屋の窓から目にする。洗礼登録抄本に見るように、わたしは兄を代父として、コンタッド元帥の娘を代母プルエル伯爵夫人として持った。光のもとに現れたときは、ほぼ死んでいたのだった。打ち寄せる波は、秋分を告げる疾風によって持ち上げられて、わたしの嘆きを聞こえなくした。わたしにはしばしばこれらの詳細が伝えられていた。彼らの悲しみは決して記憶から失われない。わたしは何者であったのかと思案しながら、自分がその上に生まれた岩を、母が生を課した部屋を、そのざわめきが最初の眠りを揺籃した嵐を、始終わたしが不幸のなかへと引きずり込んできた名前、その名前を授けてくれた不運な兄を、顧みない日はない。わたしの命運のイメージを揺りかごのなかへと導くため、これらの幾つもの状況は天によって集められたらしかった。
母の子宮から出てくると、最初の流刑に苦しんだ。わたしはディナンとサン=マロとランバルの間にある綺麗な村プランコエへと流された。母の唯一の兄弟ベデ伯爵がこの村の近くにモンショワ城を建造したのだった。母方の祖母の所有地は近隣まで広がり、『ガリア戦記』のクリオソリテス、コルスルの城下町まで拡大していた。長いあいだ未亡人だった祖母は、プランコエから橋ひとつ隔だたり、ノートルダム・ド・ナザレに捧げられたベネディクト会修道院に由来する形でラベイ[l’Abbaye
;修道院]と呼ばれていた集落に、ボワステイユル嬢である妹と共に住んでいた。
乳母は不妊だった。ある貧しいキリスト教徒がわたしを彼女の乳房へと運んだ。彼女はわたしを集落の守護聖人ノートルダム・ド・ナザレに捧げ、敬拝のため七歳になるまでわたしに青と白を着用させることをノートルダム・ド・ナザレに誓った。数時間生きたばかりであるが、すでに時間の重さが額に刻印された。なぜ死なせてくれなかったのだろう? 神の思し召しは蒙昧で無垢な誓いに与えられ、無意味な名声がたえず脅し取ろうとする一日を守られた。
この世紀にはもうあのブルターニュ農民の誓いは残っていない。しかし、乳児と天の間に置かれた、母なる大地の配慮を分かちもつ聖母、彼女の仲介は、心揺さぶるものであった。
三年のすえ、サン=マロに連れ戻された。コンブールの土地を取り戻すのに父はすでに七年の歳月をかけていた。祖先の過ごした領地へ帰還しようとしたが、ボーフォールの領主権はギュイヨンの一家に渡っており、シャトーブリアンの男爵の位はコンデの邸宅に落ちていたため交渉することが叶わず、父の目はフロワサールがCombour
と記述していたCombourg
に向けられた。一族の家系は多くコエトカンの人々との婚姻によりそこを有していたのだった。ブルターニュをノルマン人とイングランド人の侵攻から守ったコンブールはドルの司教ジャンカンが1016年に建設し、その大塔は1100年からあった。シャトーブリアン家の一人であるデュラス元帥は妻マクロヴィ・ド・コエトカンからコンブールの土地を得ており、父との交渉を行った。ひっとすれば勇敢さによって名を知られすぎているかもしれない近衛騎馬擲弾兵将校マルキ・デュ・アレーは直近のコエトカン・シャトーブリアンであり、デュ・アレー氏の兄弟だった。同じデュラス元帥はわれわれと姻戚関係にあり、やがて兄とわたしをルイ十六世に謁見させる。
わたしは王立海軍へと入隊する運命にあった。宮廷との隔絶はブルターニュ人にとって自然のことであり、父の場合にはひときわだった。三部会の貴族が父のこうした感情を強化した。
わたしをサン=マロに帰したとき、父はコンブールに、兄はサン=ブリユーの学校にいて、四姉妹は母と共に生活をしていた。
母の愛情はすべて年少の子に注がれた。他の子を愛でなかったわけではないが、若きコンブール伯爵への盲目的な優遇をみせていた。確かに、男児として、最後に生まれてきたものとして、騎士として(わたしはそう呼ばれていた)、いくらかの特権を姉御たちに対し有していた。しかし重要なのは、他人の手に委ねられたということだ。その他に、知恵と徳に満ちた母は、社交の世話と宗教の義務への心配に追われていた。代母であるプルエル伯爵夫人は母の親密な友人だった。モーペルテュイやトゥルブレ神父の親族とも知り合っていた。政治を愛し、喧騒を愛し、世界を愛した。それはケデロンの谷にあるサバの修道士のようにサン=マロの政治に関わっていたためだった。母は熱情をもってラ・シャロッテ事件に身を投じた。家には口喧しい雰囲気を、騒がしい想像を、吝嗇な精神を持ち帰り、はじめのうちは彼女の称賛すべき品格を見落とさせた。そうした秩序のなかで、子どもたちは無秩序だった。寛大さとともに、強欲な見た目を有していた。心からの優しさで、常に叱りつけた。父は使用人たちの恐怖であったが、母は天罰だった。
この両親の性格から、わたしの人生の最初の感情が生まれた。感謝の仕草と両目に溜めた涙とともに今その名を書き記すラ・ヴィルヌーヴと呼ばれた世話人、素晴らしき創造物に、わたしは縋り付いていた。ラ・ヴィルヌーヴは家の管理人の類であり、わたしは抱きしめられながら運ばれて見つけられるもの全てをこっそりと与えられ涙を拭いてもらい口づけされ隅に放り出され回収され、いつもこう囁かれた—— 《この子は奢らない子! よい心根を持った子! 貧しい人々を蔑まない子! こっちよ、小さい坊や》、そしてぶどう酒と砂糖で饗された。
ラ・ヴィルヌーヴへの幼子ながらの同情は、すぐに、より威厳をもった関係が支配する。
四番目の姉ルシルはわたしの二歳年上だった。末女として見捨てられていた彼女の装身具は姉のお下がりだけから成っていた。体はか細く、身長が年の割に高すぎて、両腕はひょろりとし、見た目は臆病で、会話に難があり、何一つ学ぶことのできない、そんな幼女を想像してほしい。そして、一回り大きな借り物のドレスを着せてほしい。張り骨で脇腹を痛めてしまう畝織りのコルセットに胸を収める。茶色のベルベットで彩った鉄製の襟で首を支える。頭髪は頭頂に巻き上げて、黒帽子で固定する。そして、生家へ引き返そうとするわたしに衝撃を与えたあの惨めな創造物を目にする。虚弱なルシルのなかにやがて輝くことになる才覚と美しさが認められるとは誰も考えぬことだろう。
彼女はおもちゃのようにわたしへ届けられたのだった。わたしは権力を悪用せず、思いのまま従わせる代わりに、保護者となった。ルシルとは毎朝、背中曲がりの黒服を着た二人の老姉妹クパールの家へと連れて行かれ読みを教わった。ルシルはまるで上手に読めなかった。わたしはさらに駄目だった。老姉妹はルシルを叱りつけていた。わたしは姉妹を引っ掻いていた。大きな苦情が母へと届けられた。陸でなしだと見做され、やがては反逆者扱い、怠け者扱い、ついには間抜け扱いされた。こうした考えが両親の頭に入った。父はシャトーブリアンの騎士全員が野兎を狩り、酒を呑み、喧嘩っ早い人物だったと語った。母は上着の汚れをみるたびにため息をつき、呻いた。子どもに過ぎないわたしだったが、父の発言はわたしの気分を害させた。母は叱責を仕上げるようにカトーもしくは英雄と呼んでいた兄を褒め称えて、期待されている悪行すべてへの意志をわたしに沸き起こすのだった。
船乗りの鬘をかぶった習字の師匠デプレ氏は両親以上に不満足であった。氏の模範に沿った次の二行の書き写しは永久に続いた。厭わしい二行だが、それはそこに含まれる文法上の誤りが原因ではない。
貴方へ、わたしの精神、わたしの語るべき人へ: 貴方にはわたしの隠しきれない欠点がある。
叱りつける際はわたしのことをアコクル頭と呼び、拳で首元を打擲した。アコル[άχώρ
;腺疫]を意味していたのだろうか? アコクル頭とは何のことだか分からないが、恐ろしいものだと捉えている。
サン=マロはただの岩石だ。塩沼のなかから上昇し、709年に海を途切れさす島となり、湾を穿って、モン・サン=ミシェルを波浪のただなかに置いた。現在そのサン=マロの岩は詩的にル・シヨン[畝]と呼ばれる土手道だけで大陸と繋がっている。ル・シヨンは高潮によって一方が侵され、港へ転回する潮流によって他方が洗われる。1730年には荒天がほぼ全域を壊滅させた。潮が引くとき、港は乾き、東と北の海岸は最良の砂浜をみせる。そこから古巣を巡る。散り散りになった岩石と砦、無人島があちらこちらにある。ル・フォール=ロワイヤル、ラ・コンシェ、セザンブレ、そしてわたしの墓場となるル・グラン=ベ[le Grand-Bé
]。よく知らずに上手く選んでいた。ブルトン語でベ[bé
]は墓を意味する。
十字架像の植えられたル・シヨンの端では大海のそばに盛られた砂を見る。この小高い丘はラ・オゲットと呼ばれる。これには古い絞首台が載っている。柱はかつて四隅遊び[les quatre coins
]のために機能していた。わたしたちは海鳥と競い合った。しかし、この場所に留まると、恐怖の感じがするのだった。
レ・ミエルという砂丘もあり、そこでは羊たちが草を食んでいた。右側にはル・パルメの底の草地や、サン=セルヴァンの郵便道路、新しい墓地、十字架像に、丘の上の風車があり、それらはヘレスポントス入口にあるアキレスの墓に立つようであった。
七年目に到達しようとしていた。乳母の誓いから解放するため、母はわたしをプランコエへ連れていった。祖母の家に滞在した。幸福を見たとするなら、この家の中だったに違いない。
祖母はル・アモー=ド=ラベイ通りの、庭から小さい谷のテラスへと降りていけ、柳に囲われた噴水を底にみる邸宅に住んでいた。ベデ夫人はすでに歩行不可能であったが、その他に老年の煩いはなかった。彼女は心地よき婆様で、太っていて、白く、清潔で、大きななりをして、美しく高貴な振る舞いをして、アンティーク調の折り目のついた服を着て、黒いレースの飾りを顎の下で結び頭に被せていた。絢爛な精神を有し、真面目な話し方で、真面目な気質だった。ボワステイユル嬢である優しさだけ似た妹が面倒をみていた。妹は小さくて細く、快活で、お喋りで、嘲笑う人だった。妹の愛したトレミゴン伯爵は、彼女と結婚しなければならなかったが、のちに約束を反故にした。大叔母は詩人であり、愛を称えることで自身を慰めた。しばしば鼻に眼鏡を掛けた状態で姉のダブルカフスに刺繡しながらハミングしていたことを覚えている、あの寓話はこう始まる:
ハイタカがムシクイの娘に恋していた。 そして、人は言う、彼は愛されたと。
ハイタカにとって奇抜なことだと、いつもわたしは思っていた。歌はこの繰り返しで終わる:
嗚呼、トレミゴン! この寓話は曖昧かしら? トゥルルル
この世界には一体いくつ大叔母の愛のように終えるものがあるだろうか、トゥルルル!
祖母は妹に家政を委ねていた。朝の十一時に昼食を取り、午睡する。一時には起きて、柳の噴水のもとにある庭のテラスの低地まで運ばれていき、妹と子どもたち、そして孫に囲まれながら織物をした。あの頃、老いは威厳だった。今日では重荷である。四時には客間に運ばれる。使用人のピエールが遊戯用のテーブルを設置する。ボワステイユル嬢がトングで暖炉の背板を叩くと、数瞬後には他の三人の老嬢が大叔母の呼びかけに応じて隣家からやって来るのだった。
この三姉妹はヴィルデヌ嬢と呼ばれていた。貧しい紳士の娘たちであり、生まれた村をついぞ離れたことがなく、僅かな遺産を分配する代わりに、ともに享受して共同生活を送っていた。祖母とは幼少期から結びつき、近くに住んで、カドリールに加わるため毎日煙突の音を合図に訪ねた。ゲームが開始される。淑女が言い争う。これが彼女たちの人生唯一の出来事であり、癇癪を起こす唯一の時間だった。八時になると、夕食で落ち着きを取り戻す。しばしば叔父のベデが息子ひとりと娘三人を連れて来て、祖母と夕餉をともにした。祖母は昔話をいくつも語った。叔父の番となると、自らが参戦したフォントノワの戦いをつぶさに語り、気ままな話で自慢を飾り立て、笑いで正直な娘の息を止めさせた。九時には夕食を終えて、使用人たちが入ってくる。彼らが膝を突くと、ボワステイユル嬢がはっきりとした声でお祈りをする。十時には皆眠りにつくが、祖母だけは家政婦の朗読を朝の一時まで聞くのだった。
これが人生で初めて見た社交界であり、消失を目撃する初めての社交界だった。死が安らぎと祝福の屋根のしたに入り込み、少しずつ孤独を生み出して、部屋を閉ざし、そしてまた別の部屋を閉ざして、ふたたび開かれなくするのを見た。馴染みの相手がいなくなったために、祖母はカドリールを諦めなければならなかった。旧友の数が減るのを、祖母が最後に倒れる日まで見届けた。彼女と妹は先んじた方がすぐに他方を呼ぶことを誓った。約束は守られ、ベデ夫人はボワステイユル嬢より数カ月だけ長く生きた。これらの人々が存在したことを知る人物は世界でわたし一人かもしれない。この出来事を経てから、何度も同じ観察をしてきた。何度も社交界が形成されて、わたしの周りで散り散りになった。人間同士のつながりにおけるこの持続と永さの不可能性、われわれを追うこの深い忘却、墓を覆い、住宅へ忍び込むこの打ち崩すことのできない静寂が、いつでもわたしを孤立へ追い立てる。どんな手でも死の熱に浮かされたわたしたちに必要な水のグラスを差し出すのによい。嗚呼! われわれを慈しみ過ぎてもいけない! どうすれば口づけで覆い尽くした手を、胸に当て続けたい手を、絶望せず捨て去れようか?
ベデ伯爵の城はプランコエから一リュー離れた高く喜ばしい位置にあった。そこでは全てが歓喜の息を吐いていた。叔父の陽気さは無尽蔵だった。彼は心の華やぎを分かつ、三人の娘カロリーヌ、マリ、フロールと、ラ・ブエタルデ伯爵で高等法院評定官の一人息子を持った。モンショワ城は近隣の親戚でいっぱいとなった。音楽は流れ、ダンスは踊られ、追いかけ合って、朝から晩まで喜びに浸った。叔母のベデ夫人は無頓着に資産と収入を消費する叔父に対し十分に正当な怒りを抱いていた。だが誰も話を聞かず、その気質の悪さによって家族の気質の良さが増した。特に叔母自身がつよく偏執的だったためだ。大型で攻撃的な猟犬をいつでも膝下に侍らせ、次には私有する猪の唸り声で城を満たした。父の邸宅に着いたときには、とても暗く、とても静かで、この祝杯と喧騒の館はわたしにとって真の楽園だった。この対称性はわたしの家族が田舎に移って以降、驚くべきものとなった。コンブールからモンショワというのは、砂漠から世界へと、中世の男爵の天守からローマ王の別荘へと移動するようなものだった。
1775年の昇天祭には、母とボワステイユルの大叔母、ベデの叔父、叔父の子どもたち、乳母、乳兄弟と共にノートルダム・ド・ナザレに向けて祖母の家を出発した。わたしは裾長の白い服を着て、短靴を履き、手袋をはめ、白い帽子を被り、青いシルクのベルトをつけていた。朝の十時にはラベイまで登った。道路に隣接する修道院はブルターニュ公ジャン五世の時代からあるニレの五点形のため古い装いをしていた。五点形からは墓地へと進むことができる。キリスト教徒はこの埋葬所を通って教会にたどり着くしかなかった。神の現前へは死を経て至る。
聖職者たちはすでに着席していた。祭壇が蝋燭の列なりに輝き、灯火が幾つもの穹窿から下がっている。これらが、ゴシック建築のなかで、地平線が続くように距離を取って存在していた。典礼係がわたしを戸口まで迎えに来て、荘厳にクワイヤへと導く。そこには三つの席が用意されていた。真ん中の席に足を運ぶ。乳母は左側に、乳兄弟は右側に着席した。
ミサが開始される。奉献文では、司祭がわたしの方を向き、祈りを唱える。つづけて聖母の肖像の下に奉納物として結び付ける白い衣服を脱がす。わたしに紫色の服を着せる。小修道院長が誓約の効力に関して説教する。聖ルイとともに東洋を旅したシャトーブリアン男爵を回顧する。やがてはわたしもパレスチナ、貧者の祈りが取成すことでわたしがつねに神のご助力を受けた生を負うこのナザレの聖母を訪ねるかもしれないと言った。ダンテの祖父が祖先の話を語ったように一族の話をするこの修道士は、あるいはカッチャグイーダのようにわたしの流刑を予言したかもしれなかった。
Tu proverai sì come sà di sale
Lo pane altrui, e com' è duro calle
Lo scendere e il salir per l'altrui scale.
E quel che più ti graverà le spalle,
Sarà la compagnia malvagia e scempia,
Con la qual tu cadrai in questa valle;
Che tutta ingrata, tutta matta ed empia
Si farà contra te. . . . . . . . .
. . . . . . . . . . . . . .
Di sua bestialitate il suo processo
Farà la pruova : si ch'a te fia bello
Averti fatta parte, per te stesso.
《他人の麺麭のいかばかり苦く他人の階子の昇降のいかばかりつらきやを汝自ら驗しみむ。しかして最も重く汝の肩を壓すものは、汝とともにこの溪に落つる邪惡庸愚の侶なるべし。かれら全く恩を忘れ狂ひ猛りて汝に背かむ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。かれらの行爲は獸の如きその性の證とならむ、されば汝唯一人を一の黨派たらしむるかた汝にとりて善かるべし》[神曲 天堂 第十七曲 山川丙三郎訳]
ベネディクト会士の説教を受けてから、エルサレム巡礼を夢見てきた、そして、ついに成し遂げた。
わたしは宗教に身を捧げ、残る無垢は祭壇のうえに留まった。今日の神殿に吊り下げるべきものはわたしの衣服ではなく、わたしの悲嘆である。
サン=マロに連れ戻された。サン=マロはnotitia imperii
[帝国要覧]内のアレットではない。アレットはローマ人により郊外のサン=セルヴァンにあるランス川の河口、ソリドールという軍港へと上手い具合に配置された。アレットに対するのは岩であり、est in conspectu Tenedos
[視界にはテネドス島がある]、寝返ったギリシャ人の逃げ場所ではなく、507年にその島で家を作った隠遁者アーロンの隠れ家である。これはクローヴィスがアラリックに打ち勝った年だ。一方は小さい修道院を建て、他方は大君主国を樹立したが、建造物は等しく潰れる。
マロ、ラテン語でマクロウィウス、マクトゥス、マクテスと呼ばれた人物は、541年にアレットの司教となり、アーロンの評判に惹かれて、彼を訪ねた。この隠者の礼拝堂の礼拝堂聖職者は、聖アーロンの死後、共住の教会をin prædio Machutis
[マクティスの土地に]建てた。マロの名は島の名へと伝わり、つづいて町の名に、マクロウィウム、マクロポリスとして伝わった。
アレット最初の司教である聖マロから、1140年に指名を受け大聖堂を建設したド・ラ・グリエという綽名の福者ジャンまで、司教は四十五人いた。すでにアレットのほぼ全域が打ち捨てられていたために、ジャン・ド・ラ・グリエは司教の座をローマ人の町からアーロンの岩の上で発展したブルターニュ人の町へと移した。
サン=マロはフランス王とイングランド王の間で起こった戦争のために大変な苦しみを経なくてはならなかった。
リッチモンド伯、白薔薇と赤薔薇の諍いを終結させる、のちのイングランド王ヘンリー七世は、サン=マロに連れて来られた。ブルターニュ公爵によりリチャード三世の大使へと引き渡され、大使たちは彼を死なすためロンドンへ連行しようとした。見張りの目をかい潜り、asylum quod in eâ urbe est inviolatissimum
[あの町で最も不可侵たる逃げ場]、大聖堂へと逃げ込んだ。この不可侵権の端緒はアーロンの島の最初の司祭ともいうべきドルイドたちにまで遡る。
サン=マロの司教は三人の寵臣のうちの一人で(他の二人はアルテュール・ド・モントーバンとジャン・アンガン)、三人は不運なジル・ド・ブルターニュの命を奪った。以下が『ジルの嘆かわしい歴史』に記載してある—— シャトーブリアンとシャントセの領主で、フランスとブルターニュの血を引く王子は、1450年4月24日、寵臣の使いが牢獄で絞殺。
アンリ四世とサン=マロ間の美しい協定がある: 町は力を持って力と対峙し、壁のうちに逃げ込んできた者たちを守り、フランス砲兵部隊司令官フィリベール・ド・ラ・ギシュの命により百門の大砲を自由を溶かす。宗教と、裕福さ、そして海の騎士、この小さいサン=マロ共和国ほど(太陽と芸術を除いて)ベニスに似るものはない。カール五世のアフリカ遠征を支援し、ルイ十三世をラ・ロシェル前で救った。ありとある波のうえで国旗を掲げ、モカ、スーラト、ポンディシェリとの関係を維持し、それらのただ中で結成された連隊は南海を探索した。
アンリ四世の統治以後、わたしの故郷はフランスへの献身と忠信とで際立った。イングランド人は1693年に故郷を爆撃した。その年の11月29日には、やがてわたしが仲間たちとその残骸のなかでしばしば遊ぶことになる、地獄の機械を出航させた。イングランド人は1758年にも爆撃を行った。
サン=マロの人々は、1701年の戦争のあいだ、相当な額をルイ十四世に貸し付けた。ルイ十四世は忠義の報いとして自衛の特権を彼らに認めた。王立海軍の旗艦の乗組員には、サン=マロとその領地の船乗りだけを欲した。
1771年、サン=マロの人々は新たな犠牲を払い、ルイ十五世への三千万の貸与を行った。著名なアンソン提督はカンカルまで下り、1758年にサン=セルヴァンを焼き討った。サン=マロの城の内部では、ラ・シャロッテが爪楊枝に水と煤をつけてリネンに回想録を書いたが、喧しいばかりで、誰も覚えていない。出来事が出来事をかき消す。碑文が碑文の上に刻まれ、パリンプセストの歴史を数ページ生む。
サン=マロはわれわれの海軍に最高の船乗りを届けた。基本的な役割は1682年出版の二つ折りの書物『サン=マロの将校、海員、船員の基本的役割』に見ることができる。慣習法大全のなかには『サン=マロの慣習法』がある。町の公文書館は歴史と海上法のため有益な特許状をとても豊富に揃えている。
サン=マロは、フランスのクリストファー・コロンブス、カナダを発見したジャック・カルティエの祖国である。サン=マロの人々[les Malouins
]はアメリカの対極で再び諸島に到達したが、その諸島は現在彼らの名を負って、マルイーヌ諸島[Îles Malouines
]と呼ばれる。
サン=マロは海の男のなかでも最も偉大なひとりと見られたデュゲイ=トルーアンの故郷である、そして今日では偉大さをフランスのスルクフが受け継いでいる。高名なフランス領フランス島総督マエ・ド・ラ・ブルドンネは、ラ・メトリーやモーペルテュイ、ヴォルテールが笑いものにしたトゥルブレ神父らと同様に、サン=マロで生まれた。チュイルリー公園ほどではない囲いの話として悪くはない。
ラムネー神父は彼から遠く隔たったところまでわたしの祖国に関するこれらの僅かな案内書を残した。
ブルッセは同じく、わたしの高潔な友ラ・フェロネ伯爵がそうであったように、サン=マロで生まれている。
最後に、何も省いてしまわぬよう、サン=マロの守備隊を形成したマスティフたちを思い出しておきたい。名高い犬、ストラボンによれば飼い主とともにローマ人と会戦したガリアの連隊の子の、子孫である。ドミニコ会の聖職者で、ギリシャの地理学者ほど真摯な著述家であった大聖アルベルトはサン=マロでこう評している—— 《このように重要な場所の警備は毎晩特定の巧みで確かな巡回を行うマスティフの忠義に委ねられている》。彼らは紳士の脚を無思慮に食べてしまうという不幸に見舞われて、死刑の宣告を受けた。今では『ボン・ヴォヤージュ』という歌になっている。全てはあざ笑われるのだ。犯罪者は収監された。彼らのうちの一匹は涙する看守の手から食料を受け取らなかった。この高貴なる動物は自ら飢え死んだ。犬は、人同様、忠義から罪に処される。更に言えばカンピドリオは、わたしのデロス島がそうであったように犬が警備していたが、この犬たちはスキピオ・アフリカヌスが夜明けに祈りを捧げに来るとき吠えなかった。
いくつもの時代を経た壁は、大小に分かれ、上を歩く者もいる、そうした壁が囲うサン=マロはアンヌ公爵夫人が塔や砦や堀で嵩増しした件の城がいまだに守っている。外側から見れば、この島の都市は花崗岩で出来た城塞にみえる。
子どもたちが集まるのは城とル・フォール=ロワイヤルの間にある開けた海の岸辺だ。そこでわたし、波と風の伴侶が育まれた。最初の歓びは雷雨との闘いから、もしくは眼前まで寄せては返す波との、岸頭まで追いかけ来る波との戯れから味わった。ほかの楽しみは同朋が窯と称していた記念碑を浜の砂で作り上げることだった。こののち、未来永劫のため築き上げられた城がわたしの砂の宮殿より早く崩れ去るのを都度目撃する。
わたしの命運は転換不可能なまでに確固たるものとなりはじめ、無為な幼少期へと引き渡された。素描や英語、水路学、数学のいくつかの概念が海員の厳しい生を控える男児への教育には十分すぎるものに見えた。
家族のなかで勉学することなく育った。生まれた屋敷からはすでに離れていた。母はサン=ヴァンサン広場の、ル・シヨンへ繋がる門にほとんど向いた状態の邸宅に住んでいた。町の悪童たちがもっとも親愛なる友人となった。家の庭や階段を彼らで埋め尽くした。わたしは全てにおいて彼らと似ていた。彼らの言葉を話した。彼らのやり方と見て呉れを持った。彼らのように着て、ボタンを外し、服をだぼだぼさせた。シャツはぼろぼろになった。大きく穴の空いていない靴下は一足も持たなかった。足を一歩踏み出すごとに脱げる底の破けた粗悪な靴を引きずっていた。しばしば帽子をなくし、ときどき外套を失った。顔は泥だらけになり、引っ掻き、怪我を負い、手は真っ黒になった。わたしの容姿はそれほど奇っ怪となり、母は怒りのさなかで笑い出すしかなくなり、《なんて醜いの!》と悲鳴をあげるしかなくなった。
だがつねに愛し、愛していたのは、清潔さや、更にいえば優雅さであった。夜には襤褸を繕おうとした。ラ・ヴィルヌーヴの淑女とわたしのルシルは苦行と説教から免れさせるため布の直しを手伝ってくれた。だが彼女たちの補綴は装いをより奇妙にみせるだけだった。新しい服と着飾りのため誇らしげな子どもたちの只中で襤褸を着ていた時は特に悲惨に感じた。
わたしの同胞はスペインを思わす外国の何かを持っていた。サン=マロの一族はいくらかカディに定住していた。カディの一族はいくつかサン=マロに住んだ。島の位置や、土手道、建築、邸宅、貯水槽、花崗岩の壁などサン=マロにあるそれらはカディと雰囲気を同じくする。後者をみたとき、わたしは前者を思い出した。
夜が来ると共有の鍵を使って町に籠もるサン=マロの人々は、ただひとつの家族を形成した。風習はパリからリボンと綿紗を取り寄せた若い娘たちを社交好きとするほどに純粋で、彼女たちのパートナーは怯えて離れていった。弱さは聞いたことのないものだった。アブヴィル伯爵夫人が疑われても、十字を切りながら歌う悲歌となっただけだった。しかし、トルバドゥールの伝統に不本意ながら忠実な詩人は亭主に抗する立場を取り、彼を「野蛮な怪物」と呼んだ。
一年の特定の日には、町と田舎の住人が「集会」というサン=マロ周辺の島々と砦のうえで催されるフェアに集まった。潮が引いたときは徒歩で、潮が満ちたときは舟で出向いた。船員と農民の大集合、キャンバス地の荷車、馬と驢馬と騾馬のキャラバン、商人の競り合い、海岸に張られたテント、旗印と十字架を持って群衆のなかを蛇行する修道士と組合員、櫂と帆とで出入りするボート、入港する船や入り江に錨を下ろす船、砲兵たちの斉射、鐘の音、会合のなかのすべてがざわめきや動作、そして変化に一役買っていた。
わたしは祝祭の喜びを分かち合わないただひとりの目撃者だった。玩具や菓子を買う金のない子のようであった。不運に付き物の軽蔑から逃れ、群衆から離れたところに座ると、近くでは海に湛えられたすえ岩のくぼみで生まれ変わろうとする水が溜まっていた。そこでわたしは海雀やカモメが飛ぶのを見たり、青みがかった遠隔地に向け口をあんぐりしたり、貝殻を集めたり、波が岩礁のなかで繰り返し鳴らす音を聴いたりして、楽しんでいた。夜は自宅にいても一層幸せになり難かった。特定の料理への反感を持った。わたしは強制的に食べさせられた。父が顔をよそに向けたときは、ラ・フランス[フランス出身の女中]に目で哀願し、巧みにお皿を回収してもらった。火に対しても同じ厳しさであった。暖炉に近づくことが許されなかった。ああした厳格な親は今日の子煩悩から程遠い。
だが新たな幼少期というものがわたしの悲しみを知らぬのであれば、喜びにもいくらか無知ということになる。
国の全域と国の神が喜びの雰囲気を持つ場所では宗教と家族の荘重さが一体何を意味するか、すでに誰も知らない。降誕祭や元日、公現祭、復活祭、五旬節、聖ヨハネの日は、わたしにとって幸先の良い日だった。おそらくわたしの生まれの岩の影響が感情と勉学に働いた。1015年からのち、サン=マロの人々は自らの手とやり方でシャルトル大聖堂の鐘塔の建設を助けに行くことを誓った。わたしも自らの手で古きキリスト教バシリカの打ち落された尖塔を持ち上げなかっただろうか? 《太陽は——モノワール神父が言う——ブルターニュよりも不変で確とした忠実さを真の信仰に有するカントンを決して照らさなかった。十三世紀前、いかなる不誠実さもイエス・キリストの教えを説くための器官として仕えた舌を汚さずにいた、そして生まれくるのはカトリック以外の宗教を説くブルトン語話者のブルターニュ人を目撃したものだ》
わたしが思い出すのは、祝祭の日々のあいだ聖アーロンの礼拝堂やラ・ヴィクトワール修道院などの町の幾つもの聖域へ姉とともに連れて行かれ道行きの留を巡ったことだ。何人かの不可視な女たちの甘い声に耳を打たれた。彼女たちの賛美歌のハーモニーは波の唸りと交じりあった。冬、救済の時刻には、大聖堂は人々で埋め尽くされた。老いた船人が跪くとき、小さな蝋燭を持った若い女と子供が時祷書を読み上げる。大勢がタントゥム・エルゴの合唱を繰り返す祝福のとき、そして、聖歌の合間に降誕祭の疾風がバシリカのステンドグラスを撫で、かつてジャック・カルティエとデュゲイ=トルーアンの男らしい胸を響かせた身廊のアーチが揺れるとき、わたしは宗教の驚くべき感覚を体験するのだった。母が教授してくれたすべての名前で神を呼び求める際、ラ・ヴィルヌーヴに手を握るよう言わせる必要はなかった。天が開き、天使たちがわたしたちのお香と誓いを差し出すのをみた。顔を俯ける。わたしたちに重くのしかかり、祭壇の足元に傾ぐ限り額を持ち上げないよう仕向ける困難はまだ背負われていない。
厳かな行列から離れてゆく海員が万全なまでに夜への守りを固めて乗船した一方で、別の男は教会の輝くドームを頼りに自らを導き港へ帰り来る。それゆえ、宗教と危険が絶えず現出しており、それらのイメージがわたしの思考と分かちがたく現れるのだった。生まれて間もなく、死を聞いた。夜に鐘を持って通りから通りへとゆく男が、彼の死去した兄弟のために祈るようキリスト教徒に忠告するのだった。ほぼ毎年、船が目の前で消えていった、そして、海岸に沿ってひとりで戯れていると、海が国から遠く離れたところで息絶えた異人の死体を足元に巻き上げた。シャトーブリアン夫人は聖モニカが息子に語ったようにわたしに話した—— Nihil longe est a Deo
《なにも神からは遠くない》。わたしの教育は摂理に任された。レッスンは惜しみなく授かった。
聖母に身を捧げたわたしは、守護天使と混同しながらも、保護者たる彼女を知り、愛した。彼女のイメージはラ・ヴィルヌーヴの淑女が半スー出費をして、寝台の枕元に四本のピンで留められた。人がマリアにこう語っていたころに生きるべきだった—— 《天と地の優しき娘、哀れみの母、すべての善良さの噴水、イエス・キリストを貴重な脇に抱えた人、美しくとても優しき娘、貴方に感謝し、貴方に祈ります》。
わたしがはじめて諳んじたのはこのように始まる船員の賛美歌だった——
信頼を置く、 聖母よ、あなたのご加護のもとで。 わたしを守ってくれ、 日々を見守ってくれ。 最後の時が 命運を終わらせに来たなら、 死なせてくれ もっとも聖なる死を。
のちにこの賛美歌は沈没する船のなかで聞くことになる。今日でもまだあの貧弱な歌詞をホメロスの詩句に対するように喜びを持って繰り返す。ゴシックの冠を戴せ、青いシルクのドレスを着て、銀の縁飾りをつけたマドンナがラファエルの描いた聖母よりも信仰心を掻き立てた。
少なくとも、あの穏やかな「海の星」[Étoile des mers
;ヒトデ]が人生の困難を和らげてくれていたら! だが、幼少のみぎりと同じくして、わたしは揺さぶられなくてはならなかった。アラブのナツメヤシのように、幹が岩から出てきて間もなく、風に打たれた。
ルシルを叱る女教師たちへの早熟な反乱がわたしの悪評の端緒となったことは話した。わたしの名誉は同朋が止めを刺した。
わたしの叔父であるデュ・プレシのシャトーブリアン氏は彼の兄のようにサン=マロで名を成し、彼の兄のように四人の娘と二人の息子をもうけた。はじめのうちはわたしの二人のいとこ(ピエールとアルマン)がわたしの仲間に加わったが、ピエールは王妃の小姓となり、聖職者になる運命のアルマンは学校へと送られた。ピエールは小姓の役目を終え、海軍に入隊し、アフリカの海岸で沈んだ。アルマンは、学校に長く留められたのち、1790年にフランスを去り、貴族の亡命が続くあいだ奉仕し続け、ブルターニュの海岸まで数多くの航海を小型ボートで勇敢に熟し、やがて1809年の聖金曜日に、わたしがすでに言及したように、そしてまたこの災難を物語るとき再度言及するように、王のためラ・プレーヌ・ド・グルネルで死ぬことになる。
二人のいとこを奪われたわたしは、新たなリエゾンでそれを補った。
われわれの住処である邸宅の二階にはジェスリルという名の紳士が住んでいた。彼にはひとりの息子と二人の娘がいた。息子はわたしとは別様に育てられていた。甘やかされ、彼のすることは可愛げがあると見なされた。闘いだけを好み、特に、諍いの審判となって唆そうとした。散歩に連れてゆく女中たちを逆なでる悪戯をして、生意気さばかりが噂となり、大罪扱いされた。彼の父はすべてを笑い種にし、ジョソンはより可愛がられるだけだった。ジェスリルは親友となり、わたしに対し信じがたい優勢を保った。そのような師匠のもと、性格は全く異なるが、利益を受けた。わたしは孤独な遊びを愛し、誰とも争おうとしなかった。ジェスリルは快楽狂であり、集団狂であり、子どもたちの抗争のなかで歓喜していた。悪ガキたちがわたしに話しかけるとき、ジェスリルは語った—— 《我慢しているのか?》。この言葉で、気質との折り合いがついたように思え、向こう見ずの目に飛び掛かった。背丈や年齢は関係なかった。戦いの観客である友人はわたしの勇気を讃えたが、何も手助けしてくれなかった。ときどきジェスリルはすばしっこいちびっこ達を見つけられる限り集めて軍隊を立ち上げ、その徴集兵たちをふたつの隊に分けて、われわれは石を用いた小競り合いを砂浜で行うことになった。
ジェスリルが考案した別の遊戯はより一層危険にみえた。潮が満ちた嵐のなかでは、大海岸側の城の足元に打ち付ける波が巨塔に噴き出す。それらの塔の土台から二十ピエ上がったところでは、細長くつるつるとして傾いだ花崗岩の胸壁が君臨し、堀を守る半月堡へと通じていた。大切なのは大水が打ち寄せ塔が飲み込まれる前にふたつの波の間を抜けて危険な地点を横切る、その機会を伺うことだった。そこには唸る水の山塊が迫り、少しでも遅れたら引き摺り込まれるか、壁に向かって押し潰される。この冒険を拒否するものはいなかったが、試みのまえ、顔面蒼白になる子どもたちを見た。
他人を諍いへと追いやりながら観客のままでいる傾向は、ジェスリルがその後もあまり寛大な性格を表さずにいたと思わすことだろう。だが彼はより小さき舞台のうえでレグルス[Régulus
;小さき王]の英雄譚をかき消したかもしれなかった。ローマとティトゥス・リウィウスだけが彼の栄光に欠けていた。海軍将校となりキブロンの事変に巻き込まれた。作戦を終え、イングランド人が共和国の軍隊に砲撃を続けていたとき、ジェスリルは飛び込み泳ぎ、船に近づき、イングランド人に砲火を中止するよう述べ、移住者の不幸と降伏を伝えた。イングランド人たちはジェスリルを救おうと綱を投げ込み、乗船するよう請うた。《わたしは仮釈放中の囚人です》、波のただなかで叫び、陸へと泳いで戻っていった。彼はソンブルイユとその一行に射撃された。
ジェスリルが最初の友人だった。幼少期に悪く見られた二人は、いつの日か価値あるものになるだろうという直感で結びついた。
ふたつの冒険がわたしの物語の第一章に終止符を打った、そしてわたしの教育システムに特筆すべき変化を生み出した。
日曜日にわたしたちは海岸や、サン=トマ門の扇子、もしくはル・シヨン沿いにいた。太い杭が砂に埋め込まれ、壁をうねりから守っている。海流の最初の波打ちが過ぎゆくのを眼下にみるため、常日頃から杭の頂点に登っていた。いつものように場所は取られていた。何名かの小さな女の子が小さな男の子たちと入り交じっている。わたしは海に最も近いところにいて、前では可愛く綺麗なアルヴィン・マゴンだけが喜びのため笑い恐怖のため泣いていた。ジェスリルは陸側の対極に位置していた。
潮が来た、風が吹いていた。すでに女中と使用人たちが叫んでいた—— 《お降りください、お嬢様! お降りください、お坊ちゃま!》。ジェスリルは波濤を待っている。波が杭のあいだに迫り来るとき、近くに座る子供をジェスリスが押しやる。その子は他の子の方へとひっくり返る。他の子はまた他の子の上に。列の全体が修道士の影絵のように崩れ落ちるも、それぞれが隣人によって支えられる。わたしの倒れた先の、列の一番端の少女だけが、誰にも支えられずに転落した。引き潮が彼女を運ぶ。すぐさま無数の嘆きとともに女中全員が服をたくし上げ、海を撥ねて、各々の子を掴み、引っぱたいた。アルヴィンが救出される。しかし、フランソワが突き落としたのだと明言する。女中たちがわたしに押し掛かる。わたしは逃げる。自宅の地下に身を隠すため、走る。女軍隊が追いかける。母と父は幸運なことに外出していた。ラ・ヴィルヌーヴが勇敢に入り口を守り、敵方の前衛のまえで扉をピシャリと閉める。悪事の真の作者ジェスリルが救いの手を差し伸べる。彼は自宅へと上がり、二人の姉妹とともに、窓から瓶の水を放り、襲撃者に調理済みの林檎を投げつける。女中たちは宵の口に引き上げた。だがこの情報が街中に広まり、シャトーブリアン騎士九歳は残酷な男、聖アーロンが岩から一掃した海賊の残党として通ることになる。
もうひとつの冒険がこれである:
わたしはジェスリルとともにサン=マロから商港を隔ててある郊外のサン=セルヴァンに向かった。潮が引いているなか、そこへと辿りつくには、上げ潮には覆われてしまう平たい石でできた細長い橋を渡って水の流れを横切る。付き添いの使用人たちは、われわれから随分離れて後方にいた。橋の末端で若い船乗りが近づくのをひと目見た。ジェスリルは言った—— 《あの物乞いたちを通してやろうか?》、そして直ぐさま彼らに向かって叫んだ——《雄鴨、飛び込めよ!》。海員の気概をもつ彼らは侮蔑を聞かずに前進する。ジェスリルは後退する。われわれは橋の先に立ち、小石を掴んで、海員の頭に投げる。彼らはわたしたちに押し掛かり、後退を余儀なくし、砂利で武装し、砲撃しながら遊軍つまりは使用人たちの元まで撤退させた。わたしはホラティウス[・コクレス]のように目を打たれたわけではなかった。石がとても強く当たり、半分離れている左耳が肩の上に落ちた。
痛みも考えずに帰還に思いを巡らした。襤褸を着、負傷した目を抱えて友人が用向きから帰ってくるとき、彼は憐れまれ、撫でられ、励まされ、服の直しを受けた。そのような場合、わたしは苦行に置かれた。わたしが受けた襲撃は危険で、だが、ラ・フランスは決して帰宅を促せなかった、それぐらいわたしは怯えていた。二階のジェスリル宅に隠れに行き、頭にタオルを巻き付けてもらった。このタオルが彼の始まりだった。それは彼にとっての司教冠だった。彼はわたしを司教に変え、彼と彼の姉妹とともに夕餉まで大ミサ曲を歌わせた。そして教皇は降りてゆかなければならなかった。胸が早鐘を打った。打ち破られ血だらけになった容姿に驚き、父は言葉一つ発しなかった。母は悲鳴を上げた。ラ・フランスはわたしの惨めな話を語りながら、言い訳をつけていた。わたしは手加減なく撥ね付けられた。耳に包帯が巻かれ、シャトーブリアン家の主人と夫人はわたしを早急にジェスリルから切り離すことを決めた。
それがアルトワ伯爵のサン=マロ来訪の年であったかどうか分からない。海戦の壮観が伯爵に捧げられた。火薬庫の砦のうえからは、若き王子が群衆のなか海のそばにいるのが見えた。彼の輝きとわたしの不分明さのなか、なんとも知れぬ命運だろう! それゆえ、記憶違いでない限り、サン=マロはフランスの王を二人だけ目撃する、シャルル九世と、シャルル十世である。
これが幼年時代の場面である。わたしの受けた厳しい教育が原理的に良いものなのかは知らないが、それを近親者たちが意図せず彼らの気質がもたらす自然な帰着ゆえに引き継いだ。確かであるのは、わたしの考えを他の人間のそれとは別様にしたということである。より一層確かであるのは、弱き時代と先の見えぬ時代、そして喜びの時代を通して我が家で培われた苦しみ多き習慣ゆえ、わたしの感情に憂鬱の特質を刻んだことだ。
もしかして、こうした育て方が今日の作家たちを嫌悪するよう導いたかもしれないと言うだろうか? 全くそれは当たらない。彼らの厳格さの記憶はわたしにとってほとんど心地の良いものだ。彼らの多大な品格を評価し、称える。父が死んだとき、ナバラの連隊の同朋がわたしの後悔を目撃した。宗教を譲り受けたことから、人生の慰みも母から譲り受けた。聖体秘蹟の前で灯るランプの淡い光のなか夜半教会で勉強していたピエール・ド・ラングルのように、母の口から出てきたキリスト教の真理を寄せ集めた。もっと早くから勉学に打ち込んでいれば、わたしの知性はより良く育まれたのだろうか? そうとは思わない。あの波、あの風、あの孤独がわたしの最初の師匠であり、わたしの性分により良く合っていたのかもしれない。わたしが知らずにいた幾つかの真理は野生の教師たちに負っているのかもしれない。教育システムそれ自体に他と比べたときの好ましさなどないというのが真理だ。子どもたちは、今日、もう恐怖を呼び覚ましなどしないtu
で呼びかけてくる両親をより良く愛するのだろうか? わたしの叱られていた家で、ジェスリルは甘やかされた。われわれは二人とも正直な人間で、優しい、敬意ある息子だった。悪いと思うものが息子たちの才能を引き出す。良くみえたものが同じ才能を窒息させる。神は何事も上手くやる。この世の舞台の上で演じる役柄を決めるとき、われわれを左右するのは摂理である。