偶然にも異国で資本主義と原理主義の双方を体験してから、これまで見えてこなかった光景が精細になってきた。それは物事を極めた先には何もないということで、ややもすれば虚無的にも聞こえてしまう断言だが、話はかなり異なる。例えば、今から食事を作るとする。野菜を買いに行けば、商品によって値段が異なることに気がつく。それぞれの生産方法や輸送方法、販売方法をClaudeを使って調べてみる。生産地の情報に当たれば、昔の知人が関連業者で働いていることを思い出す。たった食事を作るという一つの動きだけで、歴史や意味が生じだす。世界はたった今違いを生むことで立ち現れてくる。一方で、自分が俎上に載せるのは狭義の文学で、この狭義の文学は聖典の原理主義に対応する。寝起きの感覚を活かし、昨日読んだ文章を再度読み返す。この運動の中で行為者が距離を取ろうとしているのは、慌ただしい現代であるかもしれない。ただそれが行き過ぎれば、読書が自己確認に他ならなくなる。予測不可能な市場でオプション取引を行う。鍵盤を弾く、筆を動かす、中世の職人のように推しに願う・・。でも、ちょっと待ってください、作品は残されたじゃないですか、それでいいじゃないですか、という批判があるかもしれない。田舎でよく聞く「わたしたちの番は終わったから」「順番だから」という子供を産んだ女たちの諦観にも響きが似ている。反生殖的な学者連はそこで田舎の女たちと巡り合う。いったい、子供=作品を残すことそれ自体に何の意味があるんだろうか。20億年後、その果てで人類が何かを達成する(=救済を得る)? もちろん人類は絶滅しているだろうけど、近所で暮らしていた別の生態系が大事をなすのか、この時空間は潰え、別の時空間が千年王国を樹立するのか? そんな訳がない。20億年前、我々がまだバクテリアだったとき、変化を求めて、真核生物になった。やがて性器を持ち、幼少期に拘泥しだす。だがそれ自体には何もない。生殖から離れたり、生殖に近づいたり、それは単に、単細胞から多細胞になったときのように、もしくは遡って分子からRNAとなったときのように、違いを生もうとしているだけなのだ。
これからの芸術は少なくともこの40億年を見渡していく必要がある。 その40億年がどれだけ無意味か分かった上で、現在を見返す必要がある。そうすればトルストイはせいぜい1万年ぐらいしか見渡せなかったが、ウエルベックは1億年ぐらいいけてるという批評も可能になってくる。一方で日本文学の射程はSnapchatより短い(一体誰が読むんだろうか?)。これは刹那主義やpresentismではなく、ミクロヒストリアですらない。
高級料理店が単にお金を持っているだけの人間を手厚くもてなすように、芸術家がトリリオネアに作品を売る。だけどそれは資本=原理の再現にすぎない。音楽や絵画や文学は手段が廉価であり、すでにやるだけ状態で、「才能」がなければないほど上手く(=異なって)いく。一方で世界と向き合わざるを得ないものが映画であって、適切に色補正を行えばアナログとデジタルの見分けが付かなくなる昨今、肝心となるのは、金銭的な意味合いにおいても、倫理的な意味合いにおいても、ひとでしかない。ナンパ師がお金を持っていてはいけないのは、女性がお金のほうに執着してしまうからであり、ひとが本質的に関わる芸術であるところの映画もそのように「主義」から距離を取ることでしか実現し得ない。いま現在に最も変化を生むもの、それが映画である。